2015年7月6日月曜日

発達障害の手帳について考える

しばしば発達障害をもつ人の間で話題になるのが「手帳制度の問題」です。

地方によって基準がまちまち、必要な支援が受けにくい、本当は発達障害が問題なのに、二次障害でしか手帳をとれない、二次障害が治っても発達は凸凹だからまたストレスをためて二次障害を発症し・・・なんて。
こんな提言も出ているようです。

一方で、手帳がなくても既存の制度で大丈夫だと考える人もいます。

私は、今のところ、あったほうがいいと思っています。

もちろん今の制度でうまくやれないわけではないと思いますが、やはりそれが難しい部分もあると思います。
ただ、精神や身体の手帳ほど、金銭的な助成は受けられなくてもいいと思います。そして、ないほうがいいとも思います。
特性・必要な支援や配慮を書き込むことができれば、それだけでいいと思います。ミニ・プロフィールブックのようなものです。
そして、これは現在でもないわけではありませんが、「公的な手帳である」ことが大切なのです。

なぜならば、現在発達障害で手帳に関して支援のはざまにこぼれてしまっている人というのは、知的・身体的には問題がなく、「支援と工夫しだいで、たいてい働ける・診断を受けずに安定して過ごしている人も多い」ためです。

発達障害のある人で、働くことが難しい人というのは、二次障害等による精神症状や、知的な遅れを伴う、身体的な不具合を伴う場合が多いのではないでしょうか。
これらは、発達障害とは切り離して考えるべきであり、こういう部分に関しては既存の手帳が存在しますから、発達障害の手帳で補う必要がありません。

発達障害で知的な遅れを伴わない(つまり療育手帳を受けられない)人が手帳を欲する理由というのは「公的な支援や療育をを堂々と(?)受けたい」「普通に過ごすことは出来ても、それには普通よりもちょっと疲れている人もいるんだよ」ということをわかってほしい、というのが一番なのではないかと推測しています。
少なくとも私はそう思います。
ですから、上記のような手帳が存在するといいな、と思うのです。

例えば、感覚過敏の問題。

学校や職場でどこまでイヤーマフや耳栓が許容されるでしょうか?
制服を着ないことやアレンジがどこまで許容されるでしょうか?

これって、「公的なお墨付き」がないと、現状ではなかなか難しいのではないでしょうか?(参考:狸穴猫さんブログナツコさんブログ
はじめから対処できれば、オーバーフローで二次障害を発症、という状態は避けられるかもしれません。

免罪符、というと聞こえは悪いですが、社会にわかってもらうためには、やはり公的な手帳というのはやりやすいと思います。

こういうものができると今度は「グレーゾーン」とよばれる人が増え、そしてそこをカバーしたらさらにグレーゾーンが…ということが起こるのではないか、という非常にめんどくさい想像も働くわけで、どこまで救うのかという部分は考える必要がありそうですが。
そして、自分はどんな支援が必要で、どこまでは自分で何とかしたほうが手っとり早いのか、といった自己理解・自己支援を本人がすることも大切になるのですが。
どうにもならない部分に関して、手帳が欲しいな、と思うこともやはりあります。

なくても、みなが「違って当たり前」で、必要な支援を受けられる、違っていてもみなが頑張ることも当たり前で、うまく回るような世界になることがいちばんかと思いますが、さて発達手帳ができるのと、違って当たり前の世の中ができるの、どちらが早いでしょう。後者に期待をしたいところですが…どちらにせよ気の長い話です。

私の世代ではどちらも実現は難しそうだなあと思います。
ちまちま自分のスキルを積み上げて、楽しく生きられれば、それでいいかなあ。
しかし、このブームに乗じて(?)いろいろな制度が充実してくれると、ちょっと楽だなあ。

どちらでもかまいませんが、二次障害を起こす前に対処したほうが、社会経済的に良いであろうと思います。



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