2016年6月5日日曜日

「障害者になる」ということ



「障害者になる」ということではなく「障害者」というわくの中にある選択肢に、手が届きやすくなるための、箱、ないしは足がかりをもらった、と、そう捉えられると良いと思います。
基本的に私はそう捉えています。言葉として混沌を単純化し、独立させることは良くも悪くもあるけれど、必要ならば使った方がよいでしょう。もとは混沌なのだと忘れないようにしながら。

私は障害者と呼ばれることもあるけれど、私の全ては障害者ではない。
そのシールは、私が、障害者という箱の中にあるものを利用するためのチケットでしかない(※)。

けれど、他者には「自分が障害者である」ことをいえません。
特に、親には言えません。
それは私をすこし苦しめ悩ませます。

けれど、必ずしも公表する必要はないので、よいのかもしれません。

自分の属性や持ち物を、公開する必要は、ありません。それを選ぶのは自分です。

属性に関係なく選択が可能で、それを批判したりリンチしたりせず、他者に干渉しない世の中になってほしいと思います。

ただし、枠組みというのは社会のためにも個人のためにもある程度必要で、枠組みとの付き合いは苦手なものの、私にもとても必要なものです。有る方が安心でラクなことはあります。
そういうことを良くも悪くも認識しつつうまく利用しなくてはなあ。


(※)かといって「得をしたい」とか、そういう理由で障害者になることはできません。その人の属性や能力によるものですし、また手帳の所持とそれとは別の問題ではあるけれど、もし手帳をとろうと思うなら、厳しい審査があります。甘くはないのです。

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