2014年10月23日木曜日

思考の反芻

言葉遣いと思考をトレースしてしまう癖

こんにちは。
友人との会話で思い出した、自分の癖について。

わたしには「他者と、特に一対一で、会話するとき」に「相手の話し方(声のトーン、イントネーションすべて)思考方法を無意識にトレースしてしまう」癖があります。

無意識にやっているのか、意識的にやっているのかもよくわからない、自分の中でも、こういうことをしがちだ、という程度にしか掴みきれていない癖です。

たいていの場合は、かなりナチュラルにトレース・コピーペースト・反芻するので、自分も相手も(相手に関しては、私に言及してこない、という意味で)それに気がつかずにおしゃべりすることができます。
しかし時々、言葉遣いに特徴のある人と会話をしていると、不自然に会話が止まってしまうことがあり、自分でも「あ、私のイントネーションのせいだな」とわかる時があります
。(そう言うときは「あ、私、夢中で話していると口調が相手と似てきちゃうんです〜」ってなんでもなく言っています)
そして、この癖が、とても失礼なものだということもわかってきました(そもそも、この癖に気がついたのが半年前くらいです、失礼なことと分かっていても、自分がそうであることには、誰も気がつきませんでした。周囲で気がついたとしても「変な子」「むかつくやつ」程度で、それがトレース癖のせいだとまでは気がつかなかったでしょう)。

※ちなみに、この延長で、わざと話し方を真似してあそんだり、おもしろい言葉をとらえてあそぶ(?)(広義のエコラリアですね)こともありますが、それはまた少し別のものです。
思考トレース癖と、言葉へのひどいこだわりがあるがゆえのことでもあるのですが。

・・・※部分を書いて気がつきましたが、上記の癖および※は、

エコラリア(おうむ返し)

に近いのではないか。
という考えがよぎりました。

この癖について、わたしの頭の中で起こっていることを、できるかぎり記述してみようと思います。
前提として、基本的に、これは私の意識に、同時的に言語化できるレベルで上ってくることはほぼありません。遅延的に「はっ」と気がつくことや、後から言語化しようと試みることはあります。
しかし、「自分の頭のうごき」について言語化することはとても難しいです。「無意識にトレースしていた相手のこと」ならすらすら言語化しやすいです。
コンピュータそのものの仕組みは説明できなくても、そこでダウンロードしたデータは読めますよね。
それと相似な関係に、「頭のうごき」と「トレース内容」はあたります。

そのおかげか、ひとについての分析は、わりとできるようで、わたしのそういう話はすこしおもしろいみたいです。わたしも、そこには何の感情もなく、それをするときに論理や言葉をいかにうまく使って表現するか・いかに正確に読み取るか、というような点で、子どもが自由研究をするのと同じようにおもしろいと思っているのです。時と場合で、使い方で、プラスにもマイナスにもなります。ただし、同じ能力によって、ある程度時と場合・使い方を操ることができるので、今はあまり問題にはなりません。
小さい頃は、言語能力で処理しきれない部分も多く、すべてが未発達なうえに、周囲も私を年相応にみるために、凸凹が今以上に激しくてしんどいこともありましたし、「かわいくない」という評価をたっぷり浴びせられていました。

さて、「相手の思考と言語トレース」をしながら会話しているときの私の頭の中ですが、
まったくもって、トレース
としか言いようが有りません。そういう機能が搭載されているみたいです。

しかしわたしの思索は同時多発・樹形図的に複数の事柄を非言語的あるいは言語的に同時処理(思索)しており、言語的に処理されて、とりあえず相手の音声と要求に合うものが私の声帯で選択されます。
会話なのですが、会話でないことが有るのです。
もしかしたら、他の人々の会話も、そういうものかもしれませんが、、、それをここまで認知して、違和感を覚えるか、それとも、そういういものだと感覚的に理解できるために、違和感を覚えないのか、というところの差なのかもしれません。


これが起こる理由としては、おそらく私が「うまく会話しよう」とするため、だと考えています。
相手の考え方をトレースして、自分の考え方に搭載しておけば、相手とずれたことを言ってしまい、相手を不快にさせることは少ないです。

私の考えを話し続けると、そこには感情が希薄なようにうつります(実際はそうではありませんが)。とても冷たい人間にうつりがちなのです。
また、「話が飛ぶ」ようにうつり、会話の相手は「自分の思ったように会話が進まなくて不快(どうやら、ある程度、普通の人は「会話の型」のようなものがあって、無意識的にそれにそぐう会話を選択しているのかな?と思っています。空気の読めないことを言って、どっと笑ったり、変な空気になったりすることも含めて、どこかお約束で、それに対する反応も、きちんと丸く収まるようにやるのです。それでいて、少しづつ集団における自分の個性やスタンスをにおわせることができる、周囲もそれを理解することができる、すべて無意識に。とてもすごいと思います。)」「こいつは変なやつ、嫌なやつ」と思うことがあります。

それを避けるために、編み出した機能が、「思考トレース」である、と思います。
この機能、私と同じくASDと医師に言われた人も搭載されているようです。
彼は全体的なIQが私と同じくらい、しかし、言語性に関しては、私の方が高い数値です。
そして、彼の思考は樹形図的に同時処理しないようで、そのためにこの機能を搭載してしまったせいで、「自分の考え」が迷子になることがあるみたいです。
ただし、彼は私より定型寄りのハイブッド発達であるため、わたしより上手く人間関係をこなしています。
彼のトレース方法やトレースした内容はかなり私と似ており、おそらくほぼ同じ機能を搭載しています。言語処理機能の差と、関係性処理機能の差によって、表出は異なるのでおもしろいです。彼の表出は、私よりいくぶん感情的で、無意識のうちに彼自身の、その分析に対する評価を含んでいます。そのため、私から見ると、「自分の考えがわからなく」なっているようには思わないのですが、彼としては、トレース機能を外した際に、自分の考えを表出するのが困難であるために、そう感じているみたいです。
わたしも、すこしそういう部分は感じるものの、それは単に「自分のもともとの人間関係能力の低さ」からくるもの、トレースしないことによって、特性が強く表出するためだと考えています。
また、私は、思索方法が同時処理なので、全体としてみたときに、もともといろいろな立場から一つのことを考えて、それすべてが自分の考えだし、その中からまあ妥当だろう、というものをチョイスしたりする、ということもしていたり、考えどうしで批判しあったりするので、「表出させると意見は曖昧になることがあるが、けしてじぶんではない訳ではない」です。
トレースしてしまうことも含めて、自分が考えていることだと思えます。
そうはいっても、それは、最近「特性がでてもよいから、トレースしないで会話する」ことを練習した成果なのかもしれません。
そのおかげで、かなり思考トレース癖はよい方向に向かっていると思っています。
トレースしない方がおもしろいときはトレース思考を選択しないようにし、必要に応じて(無意識ですが)トレース思考を選択できるようになってきたのです。
他人が無意識にしていることを、意識に上らせているので、おそらく人との関わりでの疲労度は高いですが、興味深い話ができるようになったので、よしとしています。

自分でも把握仕切れていないので、記述が拡散してしまいましたが、自分にはこんな癖があります、という紹介をしてみました。
また、この記述が、知的障害や言語に遅れの見られない発達障害の大人のかんがえていることや、エコラリアの分析(単なる「わからない」だけでなく、コミュニケーション手段としてのばああいがあるということ、言語理解の一助となっているということ)をを調査する手がかりになれば良いとも思います。






2014年10月15日水曜日

エピソード2つ「言葉を文字通りに捉える(曖昧苦手)」「融通が利かない」傾向

こんにちは。


すこし思い出したエピソードから。

1.小学校時代、ある先生が、係決めを工夫して

「自分で係を考えて、それになろう」

という方法で係決めをすることになった。
わたしの通っていた小学校では、通常は、人数に見合った係を「黒板係」とか「配り係」「国語係」なんて、先生が作って、そこに児童が立候補等で係の役割を決定する、という方法がとられていました。

私は一生懸命考えました。どんな係が必要なのだろうか。どんな係を作れば良いのか。

なかなか思いつくのは難しかったです。
そしてついに私は「いつも先生が集めてやっている、ドリルや音読のカードにスタンプをおして返す係を作って、それになろう!!新しい係を考えたぞ!!!」

ところが先生はそれにちょっと困り顔。
いまは分かりますが、その係、先生がちゃんとやるべき仕事なんですね、本当は。課題チェックなので・・・まして小学校の。

でも他に新しい考えるなんてもうできない!とわたし、パニック。

結局、先生はわたしが考えた、ことをほめて、その係を認めてくれました。
おかげでわたしはそれに関しては「すごく嫌だった・しんどかった」という思いを遺さずにすみました。
いつも認める訳には、学校としても行かないでしょうが、これはわたしにはとても助かった対応だったと思います。

ただ、当時は何も言えませんでしたが、パニックしていたときの気持ちは、
・「考えた」じゃん!!!なんで!!
・みんな考えてないじゃん!!!新しいのじゃなくていいなんて知らなかった!!
・どうしてちゃんとおしえてくれないの???
もう考えるのもできないし、今までもあった係だって全部他の子がとっちゃった!!

というものでした。多分、先生は、4番目の気持ちを主にくんで(というより、もう必要な係は残っていなかったので、先生も困ったのでしょう。)、そして、考えよう、と言った手前、どうしようもなく、、ということであっただろうと思います。

「係を考える」というのは、私にとっては曖昧な表現で、かつ新しい表現だったのですね。
そのために、「今までの経験から、必要な係を思い出す」だけでいいのか「新しく係を作る」必要が有るのかわからない。そして、「考える」という言葉の中には、7割ほど「オリジナリティ」な要素がふくまれています。しかも、「自分で」考える、のですから、、、ということで、私は「周りを見て空気を読む」ことも「できないからうまいことやる(融通をきかす)」こともできず(よく言えば、ずる、ができないのですが)、一人無駄な格闘をしてしまったわけです。

大人の目から見ると、「かわいいな、わたし・・・まじめだし、ちゃんと創作したの、えらいねぇ。」と言ってあげられるのですが、当時は必死で一人でもがいていました。
このしんどさも、この気持ちも、理解しようとしてくれるおとなも、自身が気持ちを分析してあらわす能力も、ありませんでした。

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2.中学1年生、はじめてのテスト
英語のテストです。
一学期末はじめのテストということで、そんなに難しくなく100点も数名、
ところがわたしは99点でした
なぜかというと、

Q「play」を使って一文作りなさい
このとき習っていたのは、I play soccer. やI play the guitar.など「スポーツ」または「楽器の演奏」に使用するという用法でした。

わたしは、どちらもかけました。
これを書けば100点・・・でも・・・
わたし、野球もサッカーもなんにもできないし。。。楽器も演奏できないし。。。。。
だからだめだ。。もうわたしはこれかいちゃだめじゃん。。。。もうだめだ。。。涙
普通のひと(?)からすれば おバカ!!!!!!
としか言いようのないことですが、本当に真剣です。

返却のとき、みんなが弾けもしないピアノで「I play the piano.」と丸を貰っているのを見て
どうしてウソでもいいって書いてくれなかったの?!?!?!
もう一度言いますが、普通のひと(?)からすれば おバカ!!!!!!
としか言いようのないことですが、本当に真剣です。

忘れられない出来事です。
私はこのテストで「試験というものは、どんなにウソでも、アホなことをかいても、とにかく○が貰えればいいんだ」ということが、最大の学びでした。
いまではおもしろエピソードだし、当時も、自分でも「バカだなあたし〜〜」と流すことができるように成長していました(悔しくて、ホントは満点だもん!!とは言いふらしてましたが。)ので、かわいいエピソードといえばそうですが、これも「字面をそのままなぞってしまう」「融通が利かない」「認知が偏っている」特性を反映していますね。

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私の場合は、激しいパニックも少なく、ある程度周りの大人やお友達に恵まれていた(小学生で、私のパニックに大人いっさいなしで「筆談で対応」してくれるような子たちでした、、、信じられないくらいすばらしい。)こと、また、学校という世界では、私の特性はどちらかと言えばプラスに働いたことで、凹の面が目立たなかったり、すこしマイルドになっていたために、そこそこ世間的にはうまいこといっていましたが、これは、「組織で働く」段になって、大きくマイナスに転じてしまうわけですね・・・。
やはり我々には学力・友達づくり等のポイントごとの課題も大切ですが、基本的には(主婦や支援されながら、ということ、そういうスキルも含めた)「自分で食べて行ける大人」という最終目標に視点をおいた育ちが必要であるようです。

そうはいっても、まわりの人々がうまく扱ってくれたおかげで、ひどく鬱になるようなこともなくすごしていた、でも、思い出すと端々に特性が見え隠れする子ども時代のエピソード2つでした。