2014年12月31日水曜日

ことばをつかまえろ! - 車酔い-  精確版

「乗り物酔い」ってどんな意味

私は自閉スペクトラム症(以降ASD)であり、感覚の過敏や鈍麻をもっています。

しかし、先日「感覚鈍麻」せいで「よく理解できない」と感じていた「乗り物酔い」の「言葉の意味」について、意味を捕まえることに成功したところ、乗り物酔い・体調不良に関しては、鈍麻もさることながら「社会性・想像力」の凹みによって捉えづらくなっていたことがわかりました。

もしかしたら、表出する症状に隠れて、別の特性要因がひそんでいる当事者が、たくさんいるのではないでしょうか。
そんな当事者に向けて、今回の私の事例をお伝えします。
もしかしたら、「困っている」と感じていること以外の特性に対する働きかけで、おもわぬ解決がみえることがあるかもしれません。「ちがう」とじぶんでどんなに確信していることも、誤解かもしれません。自己理解と他者(たとえ定型のひとでも、です)理解は表裏一体である場合もあります。気持ちが落ち着いている時に、読んでいただき、生活がらくになる人がいることを願っています。

ASDは”累乗の障害”

ASDについて調べると、まず出てくるのが「ウィングの三つ組」です。これは、ASDの核をなす障害特性が「想像力・コミュニケーション・社会性」の3つである、というもので、ウィングが提唱した自閉症の概念です。現在のASD診断基準にも、ウィングの三つ組が反映されています。(※私自身は、これが自閉症の核だという考え方とは異なる考え方もある、と提案していますが、ウィングの三つ組も正しい、とかんがえており、今回の説明にふさわしい例として、俎上にのせております)

そして、ASDの困難というのは、この三つ組を個々に抱えているわけではなく、特性が相互に影響し合い、強化したり、打ち消したり、一見別の要因にも思えるような様態が、外見上ではあらわれる点であり、ここから、「自閉症は累乗の障害である」と考えられています。

「乗り物酔い」、外見上のわたし

さて今回は先述をふまえ、最近わたしが”理解した”「(乗り物)酔い」という言葉について述べてゆこうと思います。

わたしは、おそらく外見上「乗り物酔いしていない」ふうに見えます。

ところが、わたしは2014年12月、24年生きてきてはじめて、「自分は乗り物酔いをする」ことを認識し、「乗り物酔い」ということばの意味を知ったのです。

理解するということと、わたしの特性

私は、ASDのなかでも、IQが高く、かつ言語能力(言語性IQ)にも凹みのない、いわゆるアスペルガータイプです。

さらに、自然言語、なかでも母語である日本語に関するこだわりが非常に強く、若干の共感覚をもっています(文字およびことばに色や動き、手ざわり等を感じます。他人はそうでないと知ったのは23歳の冬です。)。

そのため、”言語理解”に関しては、自分ではあまり問題だと認識していませんでした。

たいていの言葉(文字でも文章でも)は、共感覚から推測したり、知識をもっているため、流暢に意味を説明できます。むしろ一般の定型発達の人よりも言語は理解している、と思っていたのです。さらに、説明はことばだけでなく、五感、とくに視覚的な説明をすることもできます。

そして、「乗り物酔い」という言葉についての大まかな私の理解は、次の図でした(視覚的な認識をしていて、図とのマッチングでおぼえていました。言葉に変換することも可能ですが、感覚的には視覚優位の入出力、記憶法だと思っています。)


図1 吐く人
※あくまで大切な要素を抽出したイメージで、実際の私の頭の中の画像とは異なるものです。


シチュエーション=背景画像は「船」「電車」「バス」等複数枚ありますが、とにかく

乗り物に乗ったら、嘔吐してしまうこと

を乗り物酔いだと認識していたのです。
この図にピタリと当てはまれば、「乗り物に酔う」という言葉が適用される、と思っていました。


「うん、あってる」とお思いになるかもしれません。
では、次のような症状が、乗り物に乗ったために起こった場合、先の図に当てはまるでしょうか?

a 少し胃がむかつくが、吐くほどではない
b 頭痛や目まいがするが、まだ倒れたりはしない
c 食欲がない
d 気分が悪い

a~dまでを図におこすと、次のような感じでしょうか。

キャプション:図2 気分の悪い人
※あくまで大切な要素を抽出したイメージで、実際の私の頭の中の画像とは異なるものです。
*わかりやすくするためにフキダシを入れた図を作成しましたが、もちろん現実にはこんなものはありません。


さて、おわかりいただけましたか?
図1と図2は、ピッタリ重なるわけがありませんよね。

ゆえにわたしは、a~dのような症状があると感じても、「乗り物酔いではない」し、「我慢するべきで、みんな我慢しているんだ、酔った、と主張する人は、嘔吐しそうなほどつらいんだ」と思っていたのです。

生きるために必要な「ことばの理解」とはどういうものか

さて、わたしの「酔う」の理解は足りていませんでした。しかし先日、知りあいとの会話でa~dも「酔う」という言葉(現象)に含まれる、ということがわかりました。さらに幸運なことに、その会話である友人が「もう我慢しないでいいんですよ(笑)」(半分、ギャグも含まれますが)と言ってくれたのです。
これで私は、「酔う」ということばだけでなく、(1)自分に納得のいく説明 、くわえて、(2)定型多数の社会における「酔う」の主張方法 =これは、言語化された空気の読み方ですね。 (3)「我慢しない=主観を主張できる」という「程度=どこまで?」についての、「じぶんが不快なら程度は問われない」という安心感 を得たのです。
すなわち、わたしがことばを扱うときに必要だと思っていたのは(1)のみで、わたしが社会で快適に生き、感覚過敏や感覚鈍磨をらくにするために本当に必要だったのは(2)、そして(3)なのでありました。そして、定型発達者は、「意味」ということばに、無意識のうちにこれらすべてをふくめつつも、「意味」の意味を説明するときには、それらは「空気」として扱ってしまう(無意識なので仕方がありませんね)。だから、われわれASD者は、それを読めず、困難を大きくする結果となっているのかもしれません。

まとめ


まとめとして上図に起こしてみました。
結局、自分では自覚できない部分の障害を、どうしてゆくのか?
自覚できないってことは、困っていないのか?本当は困っているのか?
わからないけれど、とにかく毎日発見して、研究するのは面白いです。

どうやらわたしは自分で思っているより「言葉」の知識が偏っているし、「社会性」に至っては壊滅的なのかもしれません。
うまく環境やかかわる人を選べたために気がつかなかったのか、どういうことなのか、わかりませんが、「仕事」をする上で、はじめて表面化した問題がとても多く、
どうして教えてくれなかったんだろう?
がとても多い気がします。
「 酔う」ということばひとつとっても、小学校では「気持ち悪いです」、と朝、気分の悪い子が報告していたのを思い出します。私は、「気持ち悪い」が何かわからなくて、病院送りになるまで自他共に認識できずに「ちゃんと言え!」怒られていた。おとなになっても、友人に「体調管理しろ!どうしてわからないんだ、ありえない。」と言われてきた。うーん、むずかしい!



このあたりからはボヤキですが
どうせ道徳をやるなら、「人の気持ちを考えよう」うんぬん、じゃなくて、
「なぜ考えるべきなのか?」
「大抵の人間が不快になる言葉集」
とか、マニュアルにすればいいのに。
多様性を認める、ということは、反対のことのようだけれど、「ルールで動く・それ以上でもそれ以下でもない」ということではないのだろうか?全ての人にやってほしい(と無意識に定型発達者が望む)事柄は、明らかにしてほしいなあ、とおもうのでした。
空気の存在を認識できなくてもそれに自動で従ってしまう人々には、むしろこれがむずかしいのだろうなあ。私たちはその逆がむずかしいのです。私はあなた方を否定していません。どうにか歩み寄りたいのです。そして各個人でそこそこ幸せになりたいのです。



2014年12月30日火曜日

Challengedの記事とこちらの記事について

明日の11時に、Challengedというwebマガジンに、私の書いた記事がアップされます。
名前も同じくKanoko MORIです(サイトのつくりの関係でアンダーバーが表示されるかもしれませんが)。

今回アップされる記事は、ブログとは文章のテイストも変えていますし、内容もブログで公開していないエピソードです。

ただし、今後は「内容が同じ」ものもアップされる可能性があります。

それはなぜかというと、

・Challengedの主旨として、「一般の人に読んでもらうこと・発達障害の存在を知ってもらうこと」がメインであるため、「硬い」文章だと、めざすところの読者が減る、という認識のため
・しかし、わたしの「言葉へのこだわり」ゆえに、上記の文章だけでは不満が残り、どうしても納得できない。
・今会のマガジンへの執筆はボランティアであり、著作権はすべてKanokoMORIにあるため、「challengedに書いた記事をそのまま別の媒体に私がのせること、書き方を変えて別で公開することは構わない」と了承を得ている

ためです。

そのため、一応「ライトなテイストにしてchallengedに執筆するかもしれないな〜」というものには「精確版」と仮に銘打ってあります。
このあたりのやり方は、徐々に整えてゆくつもりです。

たとえどの記事でわたしのことを知っても、とにかく「こんな人がいるのか〜ふ〜ん、おもしろいな〜」「役に立つ」と思ってもらえてば幸いです。
「障害をもっているから泣ける」などという感じ方はひどい怠慢だと思うので、ライトな記事をするからといって、そういったむやみに文章に触れたことのない読み手の感情を振り回す文を書くつもりは毛頭ありません(そういう言葉の扱いをするのはとても嫌いで、我慢できません)が、読み方によってはそうとらえられる向きもあるかもしれません(いちおうボランティアとはいえ、仕事に近い活動ですので、編集の指向にもできるだけ沿いますし)。そういう場合は、ブログの記事を読んでください。
また、ブログの記事が難しくてよくわからない場合は、すこし端的にまとめて、わかりやすい記事をあげるつもりなので、chllengedをのぞいてみてください。

2014年12月26日金曜日

ことばをつかまえろ! -autism- 精確版

 autism

これを命名した人々の意図は、

autism とはラテン語 aut = self = 自身
というところからきており、すなわち self-ism, 自己‐主義ということであり、自分中心(の 思考をもつ人々;コミュニケーション・社会性の障害)というところからの命名であるらしい。 これは、一般に自閉症スペクトラムにいわれる「(ウィングの)三ツ組の障害」や「心の理論」 における 共感 想像力 の部分からくるものであろう。

参考画像:自閉症の三つ組(ウィングの三つ組) たとえばそれは「サリーとアンの課題」において、 autism 者は自分の立場をサリー/アンの立 場と区別し、サリー/アンそれぞれの立場を想像することに困難を抱えることを、「心の理論」が形成されていない、すなわち、他者に共感・他者(の考えや感情等、自分とは異なる生きも の・思考するものの方法)を想像することについての障害、つまるところ、コミュニケーショ ンの障害、というところになるのであろう。
これはもちろん、私も正しいと思える。

まさにその通り、これが、autism 診断基準となっているのだから、これを否定することは、「今、 なんとなくではあるが専門家あるいは一般に認知されている自閉スペクトラムの概念として、 のそれ」ではないものを、新たに「自閉スペクトラム」として提案するという、まったく別の 議論であって、これを正しくないとすることは今回の文章では行わないことにするのは、この理由による。

しかしその一方で、昨今では”おとなの発達障害”にも注目が集まっており、中でも診断・当 事者および非当事者が存在を認知しづらいのが自閉スペクトラムであるように感じる(AD/HD、 ADD 等と比較して、外から障害と健常を区別しにくいのである。単なる(ここでいう「単なる」は、「脳の障害」ではなく、「性格傾向」である、というだけであって、診断基準に言及するつ もりも、ASD とは診断されない・または ASDではないが、困り感を抱えるひとびとのしんどさ・つらさを軽んじるつもりはまったくない。)”コミュ障”なのか、それとも?という具合に。おとなの場合、知的に問題がない、または知的に高い水準を示す(あくまでIQ上、いわゆる「学業成績」において)こともよくあるために、それがautism であることの特性(発達の凹み部分) を学習で補ってしまい、見えにくくなっているのだ。 しかしながら、そういった場合も当事者の苦しみが消えるわけではなく、むしろ理解されないことによる二次障害や社会適応は深刻 になり、苦しみはありあまるものである。 また、診断された当事者の主張を鑑みるに(筆者自身が当事者であるため、主張に偏りが存在 することをあらかじめ断っておく。また、ここでいう”当事者の主張”とは筆者が autism 者のブログ・twitter、著書を読んで傾向を読み取ったものである)autism者に”共感”や”心の理論”が存在しないわけでも育たないわけでもなく、けれども彼らの多くが定型一般にとってそのように見えるのは、単に認知(入力)および表現(出力)メカニズムの差異によるものであ ると考えている。(※twitter では#asp あるある等といったものがあったり、彼ら自身がそうい った表現活動を行ったり、仲間どうしで会話し、苦しさを分かちあうような活動も見られるわ けで、これは明らかに他者との交流や共感する/される関係・自己理解をもとめる行為であり、彼らが個人で”閉じて”いるばかりではないのである)(参考:田中真里・文「ひととひととのコミュニケーションとは」)
さらに、診断については、(診断といえども「社会」をより効率よくまわす、経済を循環させる いとなみのひとつであるから、当然といえば当然のこと)主に「コミュニケーション」におけ る難が問題とされるわけだが、実際には彼らの困りごととしては「感覚過敏/鈍麻」というのが 深刻に存在する。むしろ、これがために社会生活におけるコミュニケーションの困難が生じて いる場合も多いのである。
そして、これら全体を総合しまた現在主流になっている ASD の解釈というのは「入力・認知と 出力・表現のメカニズム」が定型一般と異なる、というものであろうと筆者は推測している。


筆者自身も、これが現状、もっとも ASD 者の困難をまとめた表現であるようにも思える。 しかし、それにさらに筆者は、「入力・認知 および 出力・表現」がどのように異なるのか? という点を含めた表現をしたい。さらに、それについて、外側=定型者の定めたautism という 表現も重ねて、autism ということば、そしてautismという障害そのものの核をとらえたいので ある。
その”核”についての現時点での筆者の考察を記す。

これが、私の考える「自閉」の核である。
ゆえに、autism とは、autism ソノモノ、autism-disorder、自動の障害、というわけで名前が 記すとおりの概念、という一目瞭然の整理ができ、また筆者の困り感・言語感覚的なこだわり と一致する。

もういちど整理すると、autism とは

通常ヒトの入出力機能においては自動に備わっているはずの機能が備わっておらず、マ ニュアル=手動で働かせねばならない、という困難を、障害として診断した概念

となる。
ただし、どの部分が auto で、どの部分がどの程度 manual かというのは、個々人によって異なる。

というのが、autism の本質であって、これに autism とは本来関係のない個性や、育ち影響、知能等が加わるのである。 ただ、似た性質の者が受ける外的影響というのは比較的類似してくるために、それらが外的要 因まで含めて、何となく、いわゆる、”アスペっぽい”像が形成されているのだろう。
また、彼らの抱える困難は、比較的コミュニケーション場面で顕著に発現する場合が多く、出 力については、入力の難ゆえのものであることも多い。


2014年12月2日火曜日

付箋式タイムスケジュール導入

11月に入ってから、外に働きに出ています。
さすがにまだまだフリーのものづくり業だけではやっていけないので、できそうな職場を探して働いています。
そこで導入されているスケジューリング・仕事のしかたが、とてもわかりやすかったので、自宅でも導入しました。

絵カード式・ホワイトボード式・カレンダー式などさまざまこういったスケジュール関連の支援グッズ(こことか、こことか。)はすでに存在するのですが、そこまでするのもかえって動きにくくなるかな?という考えがあって、これまでこういう形態のものは取り入れずにいました。
なぜなら、いわゆる自閉支援グッズの場合、大概想定されているスケジュール項目が「起きる」「トイレ」「食事」などの生活・清潔に必要なルーティンなのです(もちろん、それとは違う項目を、自分に合わせて作ればいいのですが、そこに考えが及ばず、また、それをするのも難しかった。これも、融通の利かなさ。)。
わたしはすでに成人しており、ある程度上記のような習慣はつけることができているため、毎日毎日、日常ルーティンをチェックするのは、窮屈で面倒なのです。
わたしがうまくうごけないのは、そうでない部分のいわゆる「フリーな時間」であるのです。

(但し、いつもと違う行動をしなくてはならず、時間に正しくこなせないといけない場合には、その日のみ、特別に、コピー紙などに予定を書いて、「朝、必ず見る場所」や、「必要な時間に必ず使うもの」に添えておきます。)

ところが、職場のスケジュールボードは、当然上記の様なものではなく、
必要な項目・必要な時間数またはいつまでにやるべきか・関係者名前
をそれぞれの人間が付箋紙に書き、代表者がタスクを振り分ける、というものでした。

そして、それぞれ自分のタスクの付箋紙を取り、仕事をします。
その仕事が終われば、付箋紙はシュレッダーにかけます。
書いてある付箋の通りに業務が進まない場合には、上司や担当者に相談( このばあいは、相談≒報告)します。

そして、その日やることが終わると、スケジュールボードはきれいに付箋がなくなります。
その段階で、「ほかに業務があるか」全体および上司に問いかけ、あればさらに仕事、なければ業務を終了します。自分のタスクが終われば、気を使う必要はなく(もちろんしごとの形態がアルバイトだからという理由もありましょうが・・・)、全員がごく普通に挨拶をして帰ります。


やりやすい!!!

どういう経緯でこんな方式になったのか?というくらいしっくりハマります。
シュレッダーをかけるときの「まりまり〜〜」という音といい、さいごにキレイになるボードといい、付箋紙のサイズ(言語やディティールにこだわりがあるため、大きすぎると要点がぼけてしまいます、そのために手帳はいつの間にか全て落書き・スクラップ・アイディア・手記のメモと化してしまいました。それはそれでいいのですが、ならばやたらに大きな手帳であり必要はない・・・→結果、薄いノートなどのカバンに入るなんらかのかみもと最低限の手帳に。)といい・・・装飾のないシンプルなボードもいい。おそらくエクセルで3分もかからず作ったのであろう質素さが、非常にわかりやすく目的を伝えてきます。

あまりにやりやすいので、自宅でも同じようにできるとよいのではないか?と思い、適当に画像検索をかけて作成してみました。しばらくこれでうまくいくか実験・改良してみます。



A4サイズでラミネートしました。一週間の予定を細かく立てるわけではない(そんなことをしたら変更に耐えられません。また、未定の部分が出ることにも耐えられないでしょう。)ので、「本日」「明日」「明日以降」に分け、付箋のサイズと書いた必要予想時間でおおよその場所に付箋を貼ります。
時間を設定するのは「本日」の欄のみで、「明日」「明日以降」の欄は、単なるタスクの箇条書きです。
ここ一ヶ月本当にひどかった「やりたいことや思索が多すぎてイメージに飲まれて過集中と虚脱を一人で繰り返し、貧血・低血圧・感覚過敏などを悪化させ、疲弊・衰弱してゆく」パターンを、ある程度短い言葉で吐き出すことで、食い止められないかと期待しています。

以前から使っていたタイマーです。時間を区切って休憩します。クルクル回して設定するのが楽しいです。
必ずしもこのタイマーというわけではなく、iPhoneを使うことも多いです。
ただ、タイマーの存在は忘れがち・・・
まあ、まいにち倒れたりはしていないので、大丈夫でしょう。思い出しては使うようにしています。そのうち週間付くか、または自分の頭に「やすみ」が搭載されたらラッキー、という程度です。


位置はここです。デスク周りをスケジュール管理場所に。作業場は別のところなので、動きがありますが、それも休憩には必要でしょう。視覚的にいちばんしっくりくる位置にしました。

うまくいくか、いかないか、わかりませんが、すこしわくわくしながら実験です。
実験は、失敗しても、実験として成立しています。よいのです。


2014年11月1日土曜日

お知らせ

本日は雨の中、覚王山秋祭にお越しくださり、ありがとうございました。
みなさんとお話しできて、また新たな出会いがあり、とても嬉しい思いです。
明日は雨が少し弱まるようで、楽しみにしておりました。
しかし、出店者の体調を鑑み、あす、11/2(日)の覚王山秋祭、KanokoMORIブースは「出店中止」とさせていただきます。大変申し訳ありません。

次の出店は、16日の「サンデービルヂングマーケット」です!
またお会いできることを楽しみにしております。

KanokoMORI


2014年10月23日木曜日

思考の反芻

言葉遣いと思考をトレースしてしまう癖

こんにちは。
友人との会話で思い出した、自分の癖について。

わたしには「他者と、特に一対一で、会話するとき」に「相手の話し方(声のトーン、イントネーションすべて)思考方法を無意識にトレースしてしまう」癖があります。

無意識にやっているのか、意識的にやっているのかもよくわからない、自分の中でも、こういうことをしがちだ、という程度にしか掴みきれていない癖です。

たいていの場合は、かなりナチュラルにトレース・コピーペースト・反芻するので、自分も相手も(相手に関しては、私に言及してこない、という意味で)それに気がつかずにおしゃべりすることができます。
しかし時々、言葉遣いに特徴のある人と会話をしていると、不自然に会話が止まってしまうことがあり、自分でも「あ、私のイントネーションのせいだな」とわかる時があります
。(そう言うときは「あ、私、夢中で話していると口調が相手と似てきちゃうんです〜」ってなんでもなく言っています)
そして、この癖が、とても失礼なものだということもわかってきました(そもそも、この癖に気がついたのが半年前くらいです、失礼なことと分かっていても、自分がそうであることには、誰も気がつきませんでした。周囲で気がついたとしても「変な子」「むかつくやつ」程度で、それがトレース癖のせいだとまでは気がつかなかったでしょう)。

※ちなみに、この延長で、わざと話し方を真似してあそんだり、おもしろい言葉をとらえてあそぶ(?)(広義のエコラリアですね)こともありますが、それはまた少し別のものです。
思考トレース癖と、言葉へのひどいこだわりがあるがゆえのことでもあるのですが。

・・・※部分を書いて気がつきましたが、上記の癖および※は、

エコラリア(おうむ返し)

に近いのではないか。
という考えがよぎりました。

この癖について、わたしの頭の中で起こっていることを、できるかぎり記述してみようと思います。
前提として、基本的に、これは私の意識に、同時的に言語化できるレベルで上ってくることはほぼありません。遅延的に「はっ」と気がつくことや、後から言語化しようと試みることはあります。
しかし、「自分の頭のうごき」について言語化することはとても難しいです。「無意識にトレースしていた相手のこと」ならすらすら言語化しやすいです。
コンピュータそのものの仕組みは説明できなくても、そこでダウンロードしたデータは読めますよね。
それと相似な関係に、「頭のうごき」と「トレース内容」はあたります。

そのおかげか、ひとについての分析は、わりとできるようで、わたしのそういう話はすこしおもしろいみたいです。わたしも、そこには何の感情もなく、それをするときに論理や言葉をいかにうまく使って表現するか・いかに正確に読み取るか、というような点で、子どもが自由研究をするのと同じようにおもしろいと思っているのです。時と場合で、使い方で、プラスにもマイナスにもなります。ただし、同じ能力によって、ある程度時と場合・使い方を操ることができるので、今はあまり問題にはなりません。
小さい頃は、言語能力で処理しきれない部分も多く、すべてが未発達なうえに、周囲も私を年相応にみるために、凸凹が今以上に激しくてしんどいこともありましたし、「かわいくない」という評価をたっぷり浴びせられていました。

さて、「相手の思考と言語トレース」をしながら会話しているときの私の頭の中ですが、
まったくもって、トレース
としか言いようが有りません。そういう機能が搭載されているみたいです。

しかしわたしの思索は同時多発・樹形図的に複数の事柄を非言語的あるいは言語的に同時処理(思索)しており、言語的に処理されて、とりあえず相手の音声と要求に合うものが私の声帯で選択されます。
会話なのですが、会話でないことが有るのです。
もしかしたら、他の人々の会話も、そういうものかもしれませんが、、、それをここまで認知して、違和感を覚えるか、それとも、そういういものだと感覚的に理解できるために、違和感を覚えないのか、というところの差なのかもしれません。


これが起こる理由としては、おそらく私が「うまく会話しよう」とするため、だと考えています。
相手の考え方をトレースして、自分の考え方に搭載しておけば、相手とずれたことを言ってしまい、相手を不快にさせることは少ないです。

私の考えを話し続けると、そこには感情が希薄なようにうつります(実際はそうではありませんが)。とても冷たい人間にうつりがちなのです。
また、「話が飛ぶ」ようにうつり、会話の相手は「自分の思ったように会話が進まなくて不快(どうやら、ある程度、普通の人は「会話の型」のようなものがあって、無意識的にそれにそぐう会話を選択しているのかな?と思っています。空気の読めないことを言って、どっと笑ったり、変な空気になったりすることも含めて、どこかお約束で、それに対する反応も、きちんと丸く収まるようにやるのです。それでいて、少しづつ集団における自分の個性やスタンスをにおわせることができる、周囲もそれを理解することができる、すべて無意識に。とてもすごいと思います。)」「こいつは変なやつ、嫌なやつ」と思うことがあります。

それを避けるために、編み出した機能が、「思考トレース」である、と思います。
この機能、私と同じくASDと医師に言われた人も搭載されているようです。
彼は全体的なIQが私と同じくらい、しかし、言語性に関しては、私の方が高い数値です。
そして、彼の思考は樹形図的に同時処理しないようで、そのためにこの機能を搭載してしまったせいで、「自分の考え」が迷子になることがあるみたいです。
ただし、彼は私より定型寄りのハイブッド発達であるため、わたしより上手く人間関係をこなしています。
彼のトレース方法やトレースした内容はかなり私と似ており、おそらくほぼ同じ機能を搭載しています。言語処理機能の差と、関係性処理機能の差によって、表出は異なるのでおもしろいです。彼の表出は、私よりいくぶん感情的で、無意識のうちに彼自身の、その分析に対する評価を含んでいます。そのため、私から見ると、「自分の考えがわからなく」なっているようには思わないのですが、彼としては、トレース機能を外した際に、自分の考えを表出するのが困難であるために、そう感じているみたいです。
わたしも、すこしそういう部分は感じるものの、それは単に「自分のもともとの人間関係能力の低さ」からくるもの、トレースしないことによって、特性が強く表出するためだと考えています。
また、私は、思索方法が同時処理なので、全体としてみたときに、もともといろいろな立場から一つのことを考えて、それすべてが自分の考えだし、その中からまあ妥当だろう、というものをチョイスしたりする、ということもしていたり、考えどうしで批判しあったりするので、「表出させると意見は曖昧になることがあるが、けしてじぶんではない訳ではない」です。
トレースしてしまうことも含めて、自分が考えていることだと思えます。
そうはいっても、それは、最近「特性がでてもよいから、トレースしないで会話する」ことを練習した成果なのかもしれません。
そのおかげで、かなり思考トレース癖はよい方向に向かっていると思っています。
トレースしない方がおもしろいときはトレース思考を選択しないようにし、必要に応じて(無意識ですが)トレース思考を選択できるようになってきたのです。
他人が無意識にしていることを、意識に上らせているので、おそらく人との関わりでの疲労度は高いですが、興味深い話ができるようになったので、よしとしています。

自分でも把握仕切れていないので、記述が拡散してしまいましたが、自分にはこんな癖があります、という紹介をしてみました。
また、この記述が、知的障害や言語に遅れの見られない発達障害の大人のかんがえていることや、エコラリアの分析(単なる「わからない」だけでなく、コミュニケーション手段としてのばああいがあるということ、言語理解の一助となっているということ)をを調査する手がかりになれば良いとも思います。






2014年10月15日水曜日

エピソード2つ「言葉を文字通りに捉える(曖昧苦手)」「融通が利かない」傾向

こんにちは。


すこし思い出したエピソードから。

1.小学校時代、ある先生が、係決めを工夫して

「自分で係を考えて、それになろう」

という方法で係決めをすることになった。
わたしの通っていた小学校では、通常は、人数に見合った係を「黒板係」とか「配り係」「国語係」なんて、先生が作って、そこに児童が立候補等で係の役割を決定する、という方法がとられていました。

私は一生懸命考えました。どんな係が必要なのだろうか。どんな係を作れば良いのか。

なかなか思いつくのは難しかったです。
そしてついに私は「いつも先生が集めてやっている、ドリルや音読のカードにスタンプをおして返す係を作って、それになろう!!新しい係を考えたぞ!!!」

ところが先生はそれにちょっと困り顔。
いまは分かりますが、その係、先生がちゃんとやるべき仕事なんですね、本当は。課題チェックなので・・・まして小学校の。

でも他に新しい考えるなんてもうできない!とわたし、パニック。

結局、先生はわたしが考えた、ことをほめて、その係を認めてくれました。
おかげでわたしはそれに関しては「すごく嫌だった・しんどかった」という思いを遺さずにすみました。
いつも認める訳には、学校としても行かないでしょうが、これはわたしにはとても助かった対応だったと思います。

ただ、当時は何も言えませんでしたが、パニックしていたときの気持ちは、
・「考えた」じゃん!!!なんで!!
・みんな考えてないじゃん!!!新しいのじゃなくていいなんて知らなかった!!
・どうしてちゃんとおしえてくれないの???
もう考えるのもできないし、今までもあった係だって全部他の子がとっちゃった!!

というものでした。多分、先生は、4番目の気持ちを主にくんで(というより、もう必要な係は残っていなかったので、先生も困ったのでしょう。)、そして、考えよう、と言った手前、どうしようもなく、、ということであっただろうと思います。

「係を考える」というのは、私にとっては曖昧な表現で、かつ新しい表現だったのですね。
そのために、「今までの経験から、必要な係を思い出す」だけでいいのか「新しく係を作る」必要が有るのかわからない。そして、「考える」という言葉の中には、7割ほど「オリジナリティ」な要素がふくまれています。しかも、「自分で」考える、のですから、、、ということで、私は「周りを見て空気を読む」ことも「できないからうまいことやる(融通をきかす)」こともできず(よく言えば、ずる、ができないのですが)、一人無駄な格闘をしてしまったわけです。

大人の目から見ると、「かわいいな、わたし・・・まじめだし、ちゃんと創作したの、えらいねぇ。」と言ってあげられるのですが、当時は必死で一人でもがいていました。
このしんどさも、この気持ちも、理解しようとしてくれるおとなも、自身が気持ちを分析してあらわす能力も、ありませんでした。

---------−--------------------

2.中学1年生、はじめてのテスト
英語のテストです。
一学期末はじめのテストということで、そんなに難しくなく100点も数名、
ところがわたしは99点でした
なぜかというと、

Q「play」を使って一文作りなさい
このとき習っていたのは、I play soccer. やI play the guitar.など「スポーツ」または「楽器の演奏」に使用するという用法でした。

わたしは、どちらもかけました。
これを書けば100点・・・でも・・・
わたし、野球もサッカーもなんにもできないし。。。楽器も演奏できないし。。。。。
だからだめだ。。もうわたしはこれかいちゃだめじゃん。。。。もうだめだ。。。涙
普通のひと(?)からすれば おバカ!!!!!!
としか言いようのないことですが、本当に真剣です。

返却のとき、みんなが弾けもしないピアノで「I play the piano.」と丸を貰っているのを見て
どうしてウソでもいいって書いてくれなかったの?!?!?!
もう一度言いますが、普通のひと(?)からすれば おバカ!!!!!!
としか言いようのないことですが、本当に真剣です。

忘れられない出来事です。
私はこのテストで「試験というものは、どんなにウソでも、アホなことをかいても、とにかく○が貰えればいいんだ」ということが、最大の学びでした。
いまではおもしろエピソードだし、当時も、自分でも「バカだなあたし〜〜」と流すことができるように成長していました(悔しくて、ホントは満点だもん!!とは言いふらしてましたが。)ので、かわいいエピソードといえばそうですが、これも「字面をそのままなぞってしまう」「融通が利かない」「認知が偏っている」特性を反映していますね。

*******

私の場合は、激しいパニックも少なく、ある程度周りの大人やお友達に恵まれていた(小学生で、私のパニックに大人いっさいなしで「筆談で対応」してくれるような子たちでした、、、信じられないくらいすばらしい。)こと、また、学校という世界では、私の特性はどちらかと言えばプラスに働いたことで、凹の面が目立たなかったり、すこしマイルドになっていたために、そこそこ世間的にはうまいこといっていましたが、これは、「組織で働く」段になって、大きくマイナスに転じてしまうわけですね・・・。
やはり我々には学力・友達づくり等のポイントごとの課題も大切ですが、基本的には(主婦や支援されながら、ということ、そういうスキルも含めた)「自分で食べて行ける大人」という最終目標に視点をおいた育ちが必要であるようです。

そうはいっても、まわりの人々がうまく扱ってくれたおかげで、ひどく鬱になるようなこともなくすごしていた、でも、思い出すと端々に特性が見え隠れする子ども時代のエピソード2つでした。

2014年9月7日日曜日

表情がない

わたしは割と意識をしないと第一印象で①「にらんでる?」「怒ってる?」と思われたり、「つまらない?」と思われたりします。
特に小さい頃はにらんでる、と思われることが圧倒的に多くて、「ああやっぱりわたしはかわいくない子どもなんだ」とおもっていました。卑屈〜〜


「にらみ」「怒り」「無表情」に見える理由推測

*表情のデフォルトが無表情で、表情を作ることをが必ずしも重要と感じられない
①顔が過剰に緊張あるいは弛緩しているせい
②五感・プチ共感覚をフルに稼働させて、バックグラウンドで脳が120%働いているせい(=表情まで脳の容量がまわらない、またはまわそうと感じない*
③見えないパニック状態(=表情まで脳の容量がまわらない、またはまわそうと感じない)

のようです。どうやら、いくつかの自分に似た例をさがすと、このあたりがしっくりきます。ただ、「にらみ」「怒り」に見えることについては正直あまり実感としては理解できていません。「無表情に見える」ことについては、これが大人になってからは圧倒的に多いので、おそらく②脳のバックグラウンド稼働または③パニックのためだろうと実感として思います。

ただし、脳の容量は人並みにある(が、定型のひとよりも激しく効率悪くメモリーを消費している)こと、学習によって、「やわらかい表情が大切」なことも知っていますし、実感としての理解もしています。また、自然に表情がでない訳でも、感情が薄い訳でもありません。
入出力に定型一般の人間とずれが有るだけです。

余裕が有る(?)ときはきちんと(?)表情が出ていると思います。
また、ビジネスシーンでは意識的に表情を作ります。

ところが、

・会話の場面での言葉がこだわりに触れてしまって思考のメモリーが奪われたり(本人が自覚しているかに関わらない)
・論旨がわからなくなったり(本人が自覚しているかに関わらない)★
・なんらかの不快刺激(本人が自覚しているかに関わらない)に耐えたり
・自分の発言を吟味していたり(本人が自覚しているかに関わらない)

などなどなど・・・・・・・・・
していると、
①〜③の状態になりやすく、そうすると、いわゆる”意識が飛んだ”状態にみえたり、無表情に見えることが多いようです。
一応目の前の会話を聞いてはいるし、ある程度理解している(または、脳に記録はしていて、後で早回しで理解して相づちをうったりします。これをやると、「え、今?!」というタイミングで変な意見を言ってしまうことも)ことが多いですが、まあ失礼な状態ですね・・・。





とくに★については、教育・ビジネスシーンに限っては、定型一般の方にとても学習してほしいと思っています。しかし、これはわたしの論理に対するこだわりが言わせている部分も大きいので、★が大切なのかどうかは今のところ分かりません。もちろん★についても療育すべき部分はありますが、比較的、他の要因の方が「環境的配慮・療育」でなんとかなるのに対して、★は「周囲の個々人みなが意識・学習」しなくては、しんどいままなのです。そして、その学習は、定型非定型問わず必要です。学校教育では国語とかアカデミックライティング分野中心(ほんとうは分野に限定すべきでない)で、いわゆる「コミュニケーション能力」というものだと思います。異なる人間に正確に伝えるための方法です。

例えば、何らかの失敗を指摘する・される際には、「失敗そのもの」の指摘「それに対するフォローの仕方(謝罪等)」の指摘「人間性」の指摘(そんなこともできないなんて、ばかだ、というもの)「失敗の原因」の指摘などを、指摘する側も、される側も、どれを指摘しているのか意識しないで、なんとなく全体を理解できる、というのが定型一般のようですね。

しかし、わたしは、こういう話し方をされると、何を言っているのかわかりません。または、理解できても、納得できません。
そして、納得できないことを、上手に流すスキルが弱いです。
自分の中で練習してはいるのですが、納得していないので、忘れられません。

さらに、そこに、感情的な話し方が加わると、よけいに理解の妨げになります。
これは普通の人でもだと思いますが、特に私の場合は、「男性の怒声(に感じる声)」と「中年女性(に感じる)の声」がとても苦手です。すごく圧迫感があって、自分の主張も、言えなくなります。「マイナスの言葉をぶつけられている」ことに意識が支配されて、「どうすればいいのか」「何についていけなかったのか」まで脳が回りません。私の場合は、こういう話し方や言葉は「どす黒いようなとげとげべちょべちょした異物を不用意に投げられて、毒がまわってしまう」という視覚的イメージで、ダメージも同じくそのように感じます。



私は、ひとに恵まれ、上手く納得させてもらえたり、または書籍などによる学習・ルールとしての学習で、ある程度上のことは、表面的にはそこそこうまくこなしたり、かわしたりしている・・・と思います。
他者から見ると、そうではない可能性が多いに有りますし、できているとはいいがたいですが、とりあえず、いまのところはゆる〜く合格としています。
こういったことを考え始めると、この記事を書いているときにも、出てきてしまって、なかなか記事を書けなかった原因になった、(今回は「いやな声をぶつけられた」といった)恨みの感情があるので、自分の中で、折り合いをつけるためにも、周囲の感情を、異なる他者として尊敬するためにも、自分も他人も「そこそこ合格」にして、ゆる〜く過ごしたいと思います。そう言いつつかなり厳しい記事になってしまいましたし、書いているのもしんどいものだったのですが、セラピー的に公開したいと思います。













2014年9月1日月曜日

不定愁訴と痛みの表現


久しぶりにAS関係で記事をつくろうと思います。

わたしは今でも、頭で分かっていても「程度に関する表現」が苦手です。
「自分のバロメータ」のようなものが果たして正しいのか、いつもまったく分かりません。

そのうちの一つで困ったことになってしまっているであろう「痛み」等不快感の表現について、自分のことを分析してみようと思います。
さまざまWebや書籍で出ていますが、当事者・成人後診断としての実感・またわたし個人としての実感を書きます。

たとえば、私は20歳を超えるころ〜最近になるまで、「頭痛」が一般的にどういう症状なのか、実感することができませんでした。
しかし思い返せばたしかに頭痛を感じていたはずなのです。
「頭が痛い」って、どういうことなのか、わからなかっただけなのです。
「頭が重い」「頭をたたかれた痛み」「めまいがする」「頭痛のために気持ちが悪い」「目が疲れている」etc...一般的にはどう区別するのでしょうか。
当然本人の主張を全面的に信じるのだと思いますが、私にはこれら等を区別するのが難しいのです。
ただ漠然とした不快感でものごとの遂行がおっくうになる、という他者から見た身体症状では、「頭痛」はわかりません。そして、上手な訴えができないがゆえに「自分は怠けているのか?」「体力がないのか?」としか思うことができないのです。さらに、周囲の言葉をそのまま自分のこととして受け取ってしまうので、「そんなの気のせいだ!」「熱はないから大丈夫」といった軽口も、「じゃあ私はだいじょうぶなはずだ」と、倒れるまで症状を我慢することになります。
よく冗談で「普段は病気しないけど病院行くと大事なんだよね〜〜」と私は言うのですが、このあたりも要因なのでしょう。医者に怒られます。しかも、適切に症状の説明もできない(「がんがん」などの表現もつかむのはむずかしい。自分独特の表現しかしっくりこないので、一般的な語彙をうまくえらべないのです)ので、めんどくさい患者です。

また、いったいどのくらいの痛み(つらさ)で周りに主張してよいのか、というのも私にとっては大きな問題です。
学校で保健室を利用する同級生のことは、「きっと深窓の令嬢とかで、とても繊細でいつも病院とかで入院するんだろうなあ・・・」といった感じの認識でした。優先席に座っている人は、みんな骨折しているか、何らかの内部障害なのか、赤ちゃんがいる、お年寄り、といった理由で、電車に乗ったら立っていることができないんだろう、と思っていました。「あいていれば誰でもすわれる」と理解はしていても、なんとなくしっくりこない(視覚優位とマッチングしない)ために、大学生になって電車に慣れるまではうまくすわれないで電車は利用していました。

前者の問題については、徐々に学習で補ったり、ごまかしごまかし(?)進歩している野ですが、後者については、いまだにかなり曖昧です。人間関係形成等もかかわっていると思います。
発達障害を扱った書籍の中で「不定愁訴が多い」という項目が有りましたが、感覚過敏感覚鈍麻に加えて(この要素はどちらかというと鈍麻なのですが、いわゆる感覚過敏鈍麻にプラス、という意味で)こういう要素も絡んでいるのではないかと思います。

病院で外国人向け?に使用される、「痛みレベル」を表情や数値化して視覚的に理解できるようにしたカードを、小さい頃から学習したりするとよいかもしれないなあと思います。数字と「勉強は手につかないけど好きなことはできる」「なにもできない」「たっていられない」「すわっていられない」「暴れてしまうつらさ」「暴れることももう無理」なんていう「症状レベルにそってあらわれる行動」をセットにした定規がいいですね。具体的な基準が欲しいです。そして、「あなたが思う、主観でかまわない。周りと違っても、あなたがつらいなら主張して良い、休んで良い。」ということを繰り返し刻み付けることが一番大切だと思います。


即席カード。わたしは、オレンジ色の部分が欲しい・・・。
下の部分は療育分野ではよくあるものをまねしました。サイズはSuicaです。学生なら定規として作って文房具として持ち歩くのもかわいい。

2014年7月30日水曜日

中心の乱暴なわたし

中心のわたしがあばれる≒過集中パターンのひとつ

ほぼ統合されたように動いていますが、実際にはわたしの頭には沢山のわたしがいて、それらがわあわあ騒いでいます。そのなかでも一番特性がつよく、突出した感覚の持ち主が、中心の暴れるわたしです。
これまでの経験学習で、そのままを言動に出すことは不利益だと学んでいるので、表面の人格が取り繕うのは渋々認めてくれている感じです。
それでも、過集中レベルが上がるにつれて中心がいろいろな脳の指示系統をジャックしてゆくので、コントロールは難しくなります。自分の描く映像通りにすすまないと簡単にかんしゃくやパニックになる人格なので大変です。
これを書いている現在も、中心の人格が65%ほどジャックしています。
言語感覚やら文脈の認知もアウトプットもあまりに通常ではないので、文章をつくるのはとても困難で、かつ思考にとても追いつきません。
言葉に過敏でかつことばを全く信用していない、あれくるう全開の人格です。
とても疲れますが、これを上手く発散してやらないと、自分がほとんど死んでしまいます。

森博嗣のS&Mシリーズの主人公子弟(彼らは桁違い・分野違い:計算方法違い?:ですが)の描写で、共感する部分があります。

2014年6月27日金曜日

「ちょっと置き」ぐせ・出がけに持ち物を探してあわてる対策(整頓)


今回はこのほうが圧倒的にわかりやすいこともあって、やっとイラストで説明を作ってみました。影が目立ってごめんなさい。
先日AS持ちの方々と少しやりとりをする中で、「ちょっと置き」ぐせの話題が出たので書いてみました。でも、これはどんな人でもけっこう使えるんじゃないかな。

わたしの方式は視覚優位の人に向いていると思いますが、わたしがやっていることは、「専用の場所に置きたくなる見た目をつくる」ことと、「置き場所を自分の動線上にする」ことです。
特に手軽なのはマスキングテープまたはメンディングテープ(ちょっとさらさらしたテープで、わたしはこの感触が好きです)を使うこと。置き場所を決めて、テープをそこに貼ってやるだけ。
これらのテープ(特にマステ)だと、貼ったりはがしたりできる上に、テープに直接ボールペン等で文字や絵がかけます。ですから、「やっぱりやめよう」が簡単にできます。テープの上に「病院のとき」とか、「いつも使う」とか、いろいろ書き込みができます。わたしは置き場を決める以外にも、機械の使い方をちょっとメモして貼ったり、コンセントのプラグに「携帯」「パソコン」とか書いて、プラグを見れば何につながっているかすぐ分かるようにしたりしています。はがせるので、今日やりたいことやアイデアを気軽に貼って、できたらはがしてしまうこともできます。ホワイトボードを買うほど、毎日予定を書くのもなあ・・使わなかったら無駄だし・・・程度の、だけどいろいろと可視化したい方におすすめです。

あとは、そこまで困っていなければ、「この箱の中には筆記具をいれるけれど、中は奇麗にならんでいなくてもOK!」と、ある程度許してしまうことです。量が多いものやストックは、(断捨離などどいいますが)、そうはいっても、すぐには減らせない事情もあるだろうし、災害等のもしもを考えてしまうと、部屋がせまいからといって、ストックを作らないのも不安ですよね。そして、いつものやつですが、「これはやるとちょっといいけど、ルールではない。とらわれない」ということを常に忘れないように・・・そう言う意味でも「はってはがせる」のはマッチしていて良いです。

2014年6月7日土曜日

体温調節(脳ー(自律)神経,発汗)とその原因・対策実践2/2

前回の記事の続きです。
今回は前回の「原因」を受けて、最近私がしていることについてです。


対策実践

・どんな姿勢(ねころんだまま、すわっていても立っていてもよい)でも良いので、まず手から、徐々にセルフマッサージとストレッチ
ツボやリンパを中心に気持ちいいくらいに刺激すると身体に力が入りやすくなります。ちからは入らないのに、いろいろなところが凝っていたり滞っていることが多いです

・少し家の中を動いてみる、水分補給、窓を開ける
これで徐々にならせるようならならします。それでもダメなら(現状)無理をしないで休む。水分は少量。多すぎると、私の場合は身体のなかは冷えても、熱が逃げている訳ではないので、よけい不調になることもある。

・熱さまシートや、氷などでリンパを冷やす

・できれば、外に出て太陽と風にあたる
これができるととても調子が良くなります。熱がすでにこもりすぎている場合は危険かもしれませんが、短時間ですこしずつ
うちの周りは田舎なので、ピョンピョンはねたり、スキップしてみたり、つま先歩きしたり、クルクルまわったり、思いつくままに踊るようにストレッチしながら歩いても、時間によっては人に会わないので、おもしろいです。
できれば「りんぱ〜〜あせ〜あせあせでろよ〜」とか、あやしい歌を歌いながらふらふらしてみたいですが、まださすがに、試していません。セルフマッサージや、マッサージしてもらうときは、「りんぱ〜」とか「合谷〜」とか言うこともあります。もしかしたら、言葉にすることで、意識の舞台に「効果」が上って、特に発達凸凹のある人には効果的かも?とふと思って、ちょっと気になっています
「太陽に当たっている」「自分の身体が動いている」ことが、すべての感覚に訴えるためか、と解釈していますが、暑さ対策なのだけれども、日に当たる方が、汗を上手にかくことができて、風も取り入れやすい気がします。
わたしは、最近育て始めたハーブや、祖母の育てている野菜・果物を眺めたり、用水路の流れ、音を感じてぼんやりします。調子が良ければ、歩いたり自転車に乗ったりします。朝と夕方の習慣になるといいと考えています。ただし、習慣はルールではないし、ルールも習慣も破ったりかえたりしてよいということを、メモや言葉に出すことで、無意味な「しなければならない」へのとらわれを避けています。

・寝る前に、熱いお湯を30分ほどかけて飲む
これは、今処方されている漢方の飲み方なので、医師の指示で飲んでいるものですが、身体の内側がじわっとあたたかくなって、じわじわ汗が出ます。「わたしの内蔵はこんなに冷えていたのか!」と、とても驚きました。これを飲み始めてから、とても症状が軽くなって、少しだけ汗をかく体質になったような気がしています。
このことで、すこし冷たい飲み物を飲むのを控えて、常温やあたたかいものを増やしたり、コップを小さいものにしたりしました。この暑さで、常温で飲み物を飲む習慣が壊れていたことに気がつきました・・・

・次の日どうしてもきちんと活動したい日は、寝る前に、起きてすぐ見えるところに、「薬飲む」とか「リップクリームを買う」とか、「できる限り、やりたい・かつ・やる必要がある」事柄をかいて貼っておく、または人に言っておく(メール等文字で残るものがよい・視覚優位/言語優位の場合)。外に出るもので、自分の欲求にそったものがいいです。


・・・今のところこのようなことをしています。ここ2日、すこぶる順調に夏バテのような状態から改善しているので、気温の低下もありますが、効いているのかな?と思っています。昨日今日は気圧が低いはずなので、以前より、気圧にも強くなった気もします。以前は気圧低下および低下する前は完全に寝込んでいたので。


書き出してみると、何を当たり前のことを!ということですし、忙しくてそんなことやってられるか!ということですが、私にとっては、文字にして意識の舞台にのせてあげることが大切です。そして、「当たり前であること」「知っていること」と、「実感していること」には、大きな隔たりがあるのです。
これも当たり前かもしれませんが、定型の人でも、実感していることというのは、「やったこと」だけなのです、「当たり前」だと思っていても、それは必ずしも、自分を使って実験したことではないのです、それに重きを置きすぎない方が良い気がします。ASD者にとっては、なおさら、認知のゆがみや、もともと持つ妙な自分ルール・固定観念のようなものを認識して、無駄な困り感から抜けだすために、こんなふうに可視化することが有効なのではないかと思います。どんな人でも、なんとなく気持ちがもやもやするならば、よい手段の一つとなりうると思います。
散歩中に見つけた綿毛のランプ
いづれ写真のノートのように、イラストもつけて記事にしたいです。
ほかにも、いきなり自分の頭の中から言葉を取り出すのが難しかったので、発達関連の書籍から書きうつしたり、書き込みをしたり、付箋を貼ったりしています。
すべてをまとめて、自分の説明書にしたいです。本当は数にものをいわせてないで定型者の説明書が欲しいよ〜、なんてことを思うこともありますが、きっとそれよりも、こうして自分のことを自分で研究する方が喜びも得るものも大きいはず。
ノートに書きためているもの。

2014年6月6日金曜日

体温調節(脳ー(自律)神経,発汗)とその原因・対策実践1/2

ASDの人には汗をかきにくい、暑さに弱い、体温調節な苦手という人が多いそうで、小さい子なんかは床にベタッと寝そべる子も多い(ヒンヤリする感触が心地よい)、という記述(参照:など・・・いっぱい出てきます。きちんとした論文のようなものは読んでいませんし、私のブログの目的として、またあくまでも個人(私)そのひとがもつ、彼ら自身のものである「困りごと」を発見し、改善できればよいわけです。)をいくつか読んだことで、もしかして、私も体温調節が苦手なのか?と考えました。

確かに、私も、自由にしていいのだと分かっていると、床にもの凄い身体の曲げ方(低緊張も絡んでいると思いますが、今回は、いろいろな場所を床につけるため、という意味で)でねそべっていることが多いです。
私は自分の状態を認識するのもとても苦手ですし、他の特性からくる部分や、他者とのちがいもよくわかりません。ですから、本当に「苦手」で「できない」のかはまだよくわかりません。

ただ、確かに比較的汗をかきにくい(たまにどうしてというくらい汗をかくこともありますが)し、岩盤浴にみんなで行って、周りの子が汗びっしょりになっても、じんわりとしか汗をかいていませんでした。
それなのに、そういう場面で暑気あたりのようになって、からだに熱がこもりすぎ、気を失ってしまうことも何度もありました。みんなで温泉や岩盤浴は楽しいし、温泉などそのものもとても好きなので、悲しい、申し訳ない思いをしました・・・

さらに、ここ数日の暑い日で、完全に参ってしまい、起き上がるのが精一杯、身体がふにゃふにゃで関節に力が入らない、やる気があるのかないのかよくわからない、身体がほてってぼんやり、周囲に指摘を受けて熱を測ったところ、発熱、という状態がおこったために、クリニックに相談しつつ、自分で、私の状態に関して、原因と対策を考えました。


原因

・体温調節の不得手さによって、熱が体内にこもりやすい

原因+α

・自分の体調を把握するのが苦手
たとえ不調でも、「表面化しない不調」、すなわち、倒れたり、吐いたりといった「視覚的に明らかな不調」や、「物理的に自分で解決できなくなる状態」になる直前までの不調、は、どこまで自覚するべきなのかも、主張するべきなのかも、わからない(むしろ、本当の問題はここなのだ!)
「主張」にいたっては、言語の問題もくみ合わさり、明らかな不調でもなかなか主張するのが難しい。過敏と鈍麻も合わさるために、うまく伝わらないあきらめの気持ちまで出てきてしまい、ひどいと、「食べ過ぎておなかが張っている」のと「内臓疾患で緊急を要する」痛みの違いもはっきりと分からないために、後者を放置してしまうようなことにもなる。普通、わからないものなのだろうけれど、おそらくそれでも、入り口の事務員が発見して車いすで早回し診察されるような痛みの場合、あるいてひとりで病院には向かわないと思うし、血がだくだく出ていたら、自転車で転んだ擦り傷でも、促されなくても保健室に向かうようだ。
「どんなふうに痛いの」といった質問も苦手。「頭の中の鳥が頭蓋骨をさわさわこつこつ」といった表現でしかしっくりこない場合など、どのように「ずきずき」「がんがん」という一般的なオノマトペに直そうか悩んでしまう。
周囲の環境も、「胸が痛い?よくあるよ、大丈夫だよ〜〜」というタイプの人が多かったこともあるだろう。
また、「保健室は凄く深窓の令嬢くらい身体の弱い子が行くのだろう、いつもふらふらなのだろう」といった妙な誤解や、優先席のマークと一致しないからどんなにつらくても座るのがしっくりこない、マッチしない感覚も、(今は学習と経験で理解しているが)中高生くらいまで持っていた。

・やたらに我慢強い(本当はそう言う訳ではないが、上記による状態としてそう映る)
・水分補給をしようと心がけても、一度に飲める量が少ない(小さいコップ一杯くらいをすこしづつしかとれない)ために、周囲とあわせられない。(たとえば、ペットボトルが売っていないと、飲みきれないために買おうか迷って、やめてしまう、時間がかかるから、気が引けてしまう など)



思いのほか長くなりましたので、対策実践については次の記事で書こうと思います!

2014年5月26日月曜日

言葉・論理・視覚・説明要求

長いですが、少しずつ、書き溜めていたものを整理して書いていこうと思っています。
いくつか書くうちに、整理されて、更新してわかりやすくできるといいなあと思います。

昔から親や周囲の私への評価は「くそまじめ(良い意味だったり悪い意味だったりするから、わたしはまじめという言葉がある時期までとても嫌いだった)で勉強はできるが、やたらよく泣く、すぐ怒る/パニックする、何を考えているのかわからない、独特な感性の難しい子」。

この評価だけ見ても、今思えば完全に自閉度の強い子どもなのだが、なまじっか学業ができてしまったが故に、性格として処理されて、あまり問題視されなかった。「くそまじめ」「いい子」というのも、学校という場においては、都合がいいために、ちょっと危なっかしい、程度で、むしろほめられてしまう要素になる。基本的に不安が強く、積極奇異やカナータイプのような目立った「問題」には見えないのだろう。

その中で、わたしがパニックしてしまう原因に上げられるのは「言葉への過敏さ・こだわり」が大きい。*
おそらく言葉の理解(表現ではなく)は早く、文字の読みかきも発達の早い部類だったと思われる。今でも、WAISの結果をみると、言語性尺度のみ、心理士さん曰く、ありえないほど突出している、明らかな優位傾向があるそうだ。感覚過敏な部分もあいまって、周囲の会話や見えてくる文字も割と認識していたように思う。
もっとも記憶に残っているのは、保育園の先生がいつもはいていた、ピンクかエメラルドグリーンのジャージに書いてあった筆記体の「molten」であって、「あれは何とかいてあるのだろう・・・めどん?メロン(melon)に似てるけれど違う。」とずっと考えていた。長じてmoltenというスポーツメーカーを知ったとき、カチッとあたまのなかで「これだ!」と、やっとあてはめることができて、非常にスッキリしたこともよく覚えている。
それから、小さい頃気になって仕方がなかったのは、「なぜ、空は、空というの?なぜ、海は、海というの?逆ではいけないの?」「もしも、逆に教えられた子がいたら、とてもたいへんなことになる・・」という疑問だった。すごく興味があると同時に、ものすごく不安でもあった。この世界の成り立ちや見通しをつけようと必死に質問していたのではないかと推測している。もう少し大きくなってから(小学校入学前検診のときにはっきり自覚した疑問)は、「色覚検査はこわい。もし、あかがあおにみえていて、そのあおを、あかだと教えられている子がいたら、「あかをさして。」といわれたら、その子から見た「あお」をさし、周囲からは「あかをさしている」ように見える。異常はないと診断されてしまう。こわい。」というものであった。この二つの疑問は周囲の大人(両親)に頻繁にしていたのだが、理解もしてもらえず、ただただうんざりした声色の、まにあわせの答えがかえってきた。(→周囲への不安・不信・あきらめが形成された・・・)たしかに、時間のない、定型の大人には、質問の意味を理解する時間すら惜しい、どうでもいい(「とって喰うわけじゃないんだから、こわがらなくていいのに」の論理)疑問なのかもしれないが。

私の、世界への興味と不安は、いちはやく「言葉のこだわり」として発露し、今に至るまで続いている。ほとんどライフワークといっていいほど、つねに言葉について考えを廻らせているし、文字があったら読んで、意味を考察したり、システムを分析比較してしまう癖がある。
また、わたしの言葉の感覚は、視覚と強く結びついた、共感覚に近いもので、文を読む(私の感覚では、ざらざらと言葉の羅列を飲む、観る感覚に近い)ときは、それは言葉一つ一つの視覚的イメージとして立ちあらわれ、論理や展開にしたがって図式化されたり、無声映画(なぜか音はない。音の描写も視覚に含んでなされる)のようになって頭をながれてゆく。私の場合、実際にみえるわけではなく、あくまでイメージとしてだが、それでも一般の人よりは言葉からうけるインパクトはこの感覚ゆえに強いと推測している。また、したがってその文章について思い出したければ、読み返すのではなく(すべて記憶するわけではないので、読み返す場合もあるが)イメージ映像や図をたどればよい。

このような処理をほとんど無意識におこなっているために、周囲の言葉への反応も過敏で、ゆえに、パニックの原因のひとつに「言葉」がなるのだろうと思う。*
おそらく、「周囲の人間が発する言葉に含まれるとげ」に過剰反応している、ということらしい。
私自身理解できるし、周囲の人間もそんなに意識をしてとげのある・マイナスの情動をふくむ言葉や音(声色も反応要素に含まれる)を使う訳ではないだろう。しかし、私の脳の、私自身には操作不可能な回路がONになっており(いつなるのか、不明。ほとんどのとき、ONであるような気がしている)、そこが、ほんのわずかなマイナスの要素にストレス反応を起こしている、らしい。
らしい、というのは、自分ではそれをほとんど意識できていないからで、また、自分で反応の原因を理解できるほど、マイナス情動が見える場合には、わたしにとってその言葉がマイナスであるのは自明すぎて、周囲の人間の認識とのギャップを捉えることがほぼ不可能だからだ(冷静になれば理解はできるが、本質的に体験することはできない)。
このことに気がついたのも、周囲からの指摘によるものだし、その時点で診断を受けて、こだわりや特性の分析をはじめていたためである。

また、言葉に付随して、論理を説明する/される要求も大きい。
ふつう定型一般では、感情にもとづいて言葉をあやつり、ある程度なんとなく聞き流しながら、会話の雰囲気(?)から、核をつかむ(?)ものらしい(?)が、それができない(できないことすらわかっていなかったし、いまも半信半疑である。これについては別の記事で書こうと思う)私は、周囲の会話を拾って感じるのは「どうして?」「どういう意味?」ということである。また、自分が何かを訴えるときにも、同様なので、感情と論理は分けていた方がわかりやすいし、論理的に説明したい、されたいという非常につよい欲求がある。かといって、必ずしも自分がそうできるわけではないのが厄介なのだが。
基本的に「異なるバックグラウンドをもつ人間にも伝わる」「すっきりとして論理的」「(自分の中の共感覚めいたものに適合するという意味で)適切な語の選択」を常にクリアしていたい。定型一般からしたら「めんどくさい!」だろうと思う。私にしても、こんなことは不可能だし、簡単にわりきれるわけがないのだから、うまくつきあう必要があると思っている。時間も労力もかかるが、研究やパターン学習で補うしかないだろう。

ただ、特にビジネスの場面では、こんな特性にも配慮した会話をしてもらえた方がいいな、、と思う。
定型発達の人間だって、若者は、そろそろビジネスとプライベートを分けたい、と思う日本人が多いのだし・・・。ユニバーサル会話で仕事、になってほしいなあ。と思います。

2014年5月19日月曜日

スケジューリング

昨日、おとといくらいから、自分の制作の勢いがうすれてきたのではないか?と感じています。そこで、カレンダーを使って、一度スケジューリングと、制作方法確立を試みようと考えています。

〔制作の勢いがうすれてきたのではないか−理由と対策〕


1これまでの勢いは、「過集中」の状態だったのではないか。

・これまでの勢いが強すぎたため、そのギャップに戸惑ってそのように感じる。
・過集中が落ちた(∽「憑物が-。」)ために、失敗をはっきり(マイナスとして)認知するようになった。
・過集中のときは、感性のみで無理矢理動く(無意識)ことができるが、そうではなくなったので、「基本的な特性」の、「具体的に方法≒ルールが確立していた方が安定的に作業ができる」「はじめから完璧を求めてしまう*」部分が大きくはたらくようになった。
→▼段階を可視化し方法を確立する。
  失敗を安定して捉えられ、効率的・正確に作業できる部分が増える。

2 マルチタスクが苦手・不器用な特性からくるのではないか。

・つまみ細工に関連して、やりたいこととすべきこと(区別がついていない部分もある※)が増えており、それぞれに集中してしまったり、うまく力を分散することができない。優先順位をつけられない。
→▼優先順位の可視化

3 過集中の対象が「ブログをきれいに”完成”させること」かわりつつある(?)。 

・*の特性「はじめから完璧を求めてしまう」がもっとも大きく関わっている。しかし、ブログの特性上、「完成」が何をさすのかは非常に曖昧。それでも、自分の頭の中にある「すてきなブログ」を投影してしまい、過剰な、不要な過集中を引き起こしつつある。
・スケジューリングができていないことによって、「見通しがない」不安、「早くやっておく」習慣、「常に思索のスイッチがオンになっている」特性・癖(へき)=頭の中に文章やイメージがあふれていて、それを表現したい強い欲求がうまく管理できない。
→▼スケジュールでブログの編集時間をルール化 

〔方法〕

・最大「ほぼ日スケジュールカズン」,最小「デスクトップマンスリーカレンダー」の、「マンスリー部分」を使用し、毎日のやることリストを2日後まで書き込む。
・しばりを作らず、使ううちにやり方を変える。
・面倒くさくなって、やめてもよい。
・やることリストは、「やりたいことリスト」であって、「やらなくてはならないことリスト」ではない。何もしなくてもよい。

ルールがあると、それにとらわれて「ルールを守ること」にこだわってしまう
今の自分の心身の状態を顧みるのが極端に苦手。脳の認知・構造能力的に、かなりの努力を要する※
私の性質」「私の今の生活」に基づく方法を模索したいと思います。

※ 仕事上、「倒れるまで働いてしまう」一番の原因。もちろん、場合によっては必要ですし、この性質をもっていても(もっているがゆえに、むしろ、過剰なくらいにきちんと)仕事そのものは「できて」しまいます。しかし、うまくコントロールしたり逃げることを身につけないと、本当に危険な特性です(私は一年間「休む練習」などというわけのわからないことまでしたのに、失敗。自他ともに障害特性の自覚がなかったためだと思っています)。


どうなるか、わかりませんが、「わからない」部分も含めて、自分で自分を観察してゆきたいと思います。

2014年5月17日土曜日

ごあいさつ 


はじめまして。
かのこ もり と言います。このブログには、二つのテーマを中心に掲載します。


私は、着物のはぎれを使って、つまみ細工を作っています。つまみ細工とはぎれを正方形に断ち、それを折り畳んだものを組み合わせることで、さまざまな形をつくることができる日本の伝統的な細工物です。
2014年の3月に、私はつまみ細工に夢中になり、今も、少しずつ勉強して細工を作っています。
つまみ細工を使って、普段使いのできるアクセサリーをつくっており、通信販売をするための準備をしています。
そこで、私が作っているものやその過程を、このブログで紹介しようと考えています。素材や作品の写真、時には私のドローイングの写真などを掲載してゆきます。
→別ブログに分けました:kanokomori.blogspot.jp


私は、ASD(自閉症スペクトラム)の診断を受けています。
診断を受けるまで、自身も周囲も、そのことに思い至りませんでした。
以来、私はノートやtwitterに自己分析や生活のくふうを書き溜めています。
しかし、それらの記述をよりクリアに、平易にするために、外部に公開する形での構成をしてみようと思っています。この分析(思考)を二つめのテーマとしてこのブログに掲載したいと思います。
ただし、私の性質がすべてのASD者に当てはまるわけでは決してありません。また、こちらの記事は、独特の言葉づかいになることがあるかもしれません。

以上が、このブログのメインテーマです。よろしくおねがいします。