2016年1月31日日曜日

カウンセリング20

カウンセリングでした。

前回で人間関係の問題が一段落し、前々から予告のあった「感情コントロール」の分野のさわりを行いました。

課題は「感情語を知っているだけ挙げる」です。


わたしが挙げたのはこちらです。
といっても、途中でiPhoneで調べて書きだしたので、実質10あるかないかくらいです。しかも、それも最初に心理士さんが挙げた例を含めて。
知っているんだけれど、出てこなかったです。
読めば、わかるけれど。
最初に「喜怒哀楽」に分けて、書き出しているのも、なんだか言語性は高いけれど、実質の感覚を伴っていない、共感性の凹みが出ているような気がしました。

それから、調べる中で「これは状態であって、感情ではない」と思う語が多かったです。
感情、および、感情語、という概念の定義を示されないまま、また合意をとらないまま(というより、それは感覚的な部分であるので、とれないのでしょう。また、課題の性質上も、そういうことはしない方がいいのかとも思いました)行ったために、判断しづらかった部分もあります。

それでも、自分ではあまり「できなかった」とは感じなかったです。というより、できたともできなかったとも言えない、何の手応えもない感じでした。

心理士さんから見ては、「少し複雑な感情になると、理解が難しいように見えた」そうです。

言われてみると、確かに複雑な表現だと、「状態」なのでは、と思うことが多いかもしれません。


感情と、体の状態はつながっています。

例えば、怒ると体に力が入ったり、頭に血が上ったり。ゆえに「頭に血が上る=怒る」という解釈ができます。
けれども、2つは同じ意味を表しているわけではありません。
「頭に血が上る」は、体の状態です。
そこから推察される感情が、多くの場合、また過去の例からの引き継ぎで「怒り」だと判断してるだけです。両者に関係があるからといって、同じではありません。

では「もやもやする」というのは?

微妙な気がします。

そんなふうに言葉の定義に気がそれたり。

それから、上記の部分についてはある程度説明できますが、そもそも「感情語の切り分け」ではなく「感情」そのものって、何でしょう?

感情が存在する理由は、生存のため。

理由はいいのです。
言葉の由来なども、いいのです。

でも、「感情」っていったい何なんでしょう。

体の状態を乱暴にまとめ上げたおおざっぱな認知、という感じでしょうか。

けれども「認知」と「感情」は別物です。
「仕方ないとわかっていても悲しい」
というように、認知と感情がずれることもあります。

よくわかりません。

いちおう、心理士さんは「認知行動療法は、本来色々な関連がある事柄を便宜的に切り分けて、治療として使えるようにしているだけ。そこは割り切る必要があるけれど、その考え方を常にする必要も、あなたの感覚そのものを変える必要もない。使うといいときに使うことを自分で選択すればよい」という旨のことをお話してはくださいました。

それでも、なんだかよくわかりませんでした。

心理士さんのおっしゃるとおり、認知は言語能力の高さで補えている、行動もなんとかコントロールできつつあるが、感情の分野がごっそり下手くそみたいです。
状況判断はできても、空気(表情)読みはできない、といったところでしょうか。


2016年1月24日日曜日

混乱の原因(2)カウンセリング19

カウンセリングでした。

今回は、前回記事「SNSにおける混乱」について継続して話しました。
記事を読んでもらい、主にカウンセラーさんの話を聞きました。

1今回の対応について

今回、私は結局混乱したまま関係をカットアウトしてしまいました。
結果的には、カウンセラーさんの意見としては「それがよかった」のではないかとのこと。
見捨てられ不安の強いいわゆるかまってちゃんタイプというのは、侵襲的な傾向が強くプロでもうまくバランスを取るのはなかなか大変なのだそうです。
それに加えて、「外からの刺激・侵入に脆弱性」のある特性持ちの私にとってはとてもむずかしいとのこと。
「あなたの場合は、フェードアウトですらなく、カットアウトしてしまって良いです。」と言われました。

ある程度定型さんだったり、コミュニケーション能力が高い人の場合はそれ以外の方法も有るだろうし、その人の面倒をどこまでも見られる覚悟の人やプロフェショナルの場合はまた違ってくると思います。


2その上で、今回のことから学べること

今回私がこの出来事にモヤモヤを感じたのは、おそらく「混乱のまま断ち切ってしまった」という、「混乱した状態で」判断してしまったための不全感だろうということでした。
なぜ混乱したかについて、この出来事そのものにも原因はありますが、今回の場合、他の問題が発生していたことや体調不良があったために、余計にしんどかったのだろうということでした。

私は、とにかくこんがらがった問題を切り分けで一つづつ解決しないと、と思ってはいましたが、完全にはうまくできなかったようで、カウンセラーさん曰く「私らしくなく、人間関係の問題として捉えている」状態だったようです(正直どのあたりが私らしくないのかはよくわからなかったけれど、まあいつもより混乱していたためにうまく事に当たれなかったんだな、程度に理解しておいた)。

といことで、今回の問題は、むしろ「自分の体調管理」を私の場合は心がけるべきだったようです。
「風邪を治さないと」とは思っていたものの、確かに今回の人間関係のこじれからくる心身の調子の崩れに関してはあまり注意を払っていませんでした(確かに食欲が落ちていた)。
色々なことからくる疲れやすさを改善するほうが先みたいです。

曰く、「三食食べてよく眠って次の朝疲れが取れていれば人間関係の問題はそんなにたいしたことだと思わない」だそうで。※

ということで、体調管理、運動やコンディショニングを何か少しやってみようかな、という所存です(最近コンディショニングのことをすっかり忘れていました…)。
前回の記事では、面白いので一応自分の問題として考えてみたけれど、正直なところあまり自分のせいだとも実感できていなかったのでこれでちょっと腑に落ちたような感じです。

3その他

※このセリフ、すごく身体アプローチ的で面白かったです。確か身体アプローチ系の本にも似たようなことが書かれていたので余計に。
→心理士さん、神田橋先生と会ったこともあるし、そのへんの本もわりと読んでいるもたいなので、身体系の考えもうまく取り入れているみたいです。その上で傾倒している感じもないので非常にうれしいところです。
芋本黄本を紹介したらすごく食いついていました。

私の体幹のことも考えてくださっているようで少し聞かれ、OT(PT?)さんを探しているのだが成人は見てくれる人が本当にいないと言っていました。本当にたすかります。



また、最近見た「自傷行為は自己治療だった!」という研究成果についてもちらっと話が出たところ、「実は僕の研究テーマはそれなんだよね〜」と自慢していました。そのときは「そうなんですか」くらいでふんふんと聞いていたのですが、帰り道に「えっ、すごい!!」って後からやっと感想が湧いてきました。ちょっと調べて読んでみようと思っています。

2016年1月22日金曜日

混乱の原因は。(カウンセリング18)

【お読みになる前にご注意】
※この記事はあくまで私の場合であり、私の「障害特性」ではなく「性格」である部分を含みます
※私は冷淡で感情がなく何をされても傷つかない、思いやりが無い、というわけではありません。会話を楽しむこともします。他人と関わることも楽しみます。
【以上】

先日、混乱していることについて、記事にしました。

原因は、
・仕事をしていることによって、それ以外の思考をすることに対する不安感があり、余裕が少ないこと

に加えて、複数の、私にとっては大きすぎる負荷がいちどにかかったこと。
その負荷は、

・基本的にだいたい15〜17時は「自宅に自分以外誰もいない」のだが、先週は常に誰かがいた。これは別の部屋にいてもわずかな音や気配、生活音が気になってしまうらしく、とてもしんどいことなのである。
・職場でジョブコーチや上司とのコミュニケーションにモヤモヤがある(うまく伝えられない)。
・風邪を引いて頭が回らない、体がとてもつらい。
・SNSで私にとっては負荷となる言動さらされた。

の4点でした。
どれも仕方がないことなのでですが…。

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さて、上記の4点については前回のカウンセリングで話しました。
要素がどれも大きく、多いため、その中で、ひとつ自分で一番しんどいことを取り上げて、と言われたのですが頭の中がもじゃもじゃで、選べませんでした。
そこで心理士さんがピックアップしたのが、一番最後の項、「SNSで私にとっては負荷となる言動にさらされた。」です。

わたしにとってその言動が「侵襲的」、つまり、「私の自由な領域を侵害する」、と、私にとっては感じるだろう、おそらくこの要因の中であなたが一番しんどいのはこれなのではないか、とのこと。

確かに、他の3要因については、比較すると、解決しやすい、ないしは時が解決してくれる、偶然的要因で起こることであるため、私が考えて意味のある要素が少なく、すなわち私への負荷が少ないです。「しょうがないか」と、思いやすい、また、「能動的解決ができる部分があるため、わかりやすい」わけです。

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ということで、SNSでのトラブルについて少し話しました。

【内容ちらっと】
最近少し交流が合った人とのやり取りのなかで、「ブロック」や「リムーブ」(Twitterの機能で、相手の発言を読まないようにしたり、相手に自分の発言を見せないようにする機能。特に制限なく、ユーザーなら自由に使える機能である。ユーザーによってはこの機能を使うならば交流しません、といった宣言をする場合も見られるが、今回は互いにそうではなく、むしろ「自由にします、自由にしてください」と相手は明記していた※。また私は明記していないが、そういうスタンスをとっている。)という機能について少し触れたら、「あなたが大切だから、交流を絶つことはしたくない。そんなことは言ってほしくない」「敬語は悲しい」(★)といったことを言われる。

そう言われることは、私にとっては侵襲です。たとえ理由が好意だとしてもです。正直、好意を理由として縛られるのは、むしろたちが悪いです。
そして、★の発言は、※の事実を矛盾しており、私はどうしたらいいのかわからなくなる。自由を奪われたように感じ、身動きできず、ただただもがく状態。
また、正直なところ「人そのものとかかわる」とか「受け入れる」みたいなことがよくわからないし、自分にできるとも思えません。(自分に、というか、定型非定型を問わず誰にもできると思えないんです…。少なくとも実感できません。)
私はその人の発する言葉や作品やそういうものと、自分の発するそういうものとの応酬を楽しんでいるだけです。…でも、それって「冷たい」んでしょうか?「人間味がない」ですか?そう言われるのも悲しいけれど、仕方がないのかもしれません。上記は事実で、他人がそう感想を発するなら、それはそうであるというそれだけだから。と、そんなふうな人間なので、突然「人そのもの」として求められてしまい、ちょっと怖かったのです。

そのくせ、「好意である」ことはわかるため、拒絶しにくい。しかも、どうも相手はかなり見捨てられ不安が強いようで、ここ最近はそういったつぶやきが目立っていたり、いわゆる「病んでいる」ような状態(正直この時点でストレスが大きくて見えないように措置していました…)。

と、こういった状態が先週でした。
もじゃもじゃと身動きが取れなくなってしまい、どうしようもなかったです。
とりあえず事情を共有したところで、カウンセリングは終了しました。そして次回に、こういう人との関わり方を教えてもらう予定でした。

が。
その後、頭がもじゃもじゃするのに耐えられなくなり、ご飯が減ってきて。
私のほうから交流を絶ってしまいました…。
いちおう、実は完全に絶ったわけではなく、相手は複数のアカウントを持っていたため、そのうちの1つは残したのですが、そちらは相手にブロックされたみたいなので、完全に絶縁です。

しかしこれでもじゃもじゃはちょっと解消となったので、少し脳みそに言語化する余力が出たようです。ブログ記入ができるようになりました。

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さて、そこでもう少し思考が進んだので、自分の問題点を洗えました。

【私の問題点】
①自他の境界線が薄い!
②伝える努力を怠った!

これです。自他境界。そしてコミュニケーション。うおお。
わかるまではもじゃもじゃしていましたが、わかってしまえば拍子抜けで、それだけのような感じです。
まあ、今回のことは私だけの問題ではないとは思いますが、、相手の問題は相手のものなので取り扱いません。

①自他境界の問題
これについてはこちらの記事にくわしい。まさにこの記事に出てくる「自他境界の薄い人」が私です。
今回の場合は、
図・文=アスペルガーライフブログより

引用:
他者の意見が自分の内部に入り込みやすいと他者の意見というだけで自分の内部への侵襲ととらえる場合も十分ありうる。この場合、他者の提案(アドバイス)に対し、提案(アドバイス)というだけで「押しつけ=侵襲」ととらえ、拒否してしまうといった過剰防衛的な対応をしがちになるだろう。
引用終わり






こんな感じでしょう。
別に、「しないで」と言われたことを必ず守らなければならないわけでも、そのまま飲み込まなければいけないわけでもありません。受け入れても、従っても、反論してもいいし、「ふ〜ん」と聞いておいて流したって構わない。だってそれは自分の考えではないし、別に法律で決まっているわけでもないのだから。別にそんな強制力はちょっと交流した他人にはないし、親子だとしてもない(あるべきではない)のです。
正直なところ、多少「弱さを振りかざされた」ふしはあれど(どうしてもそう思っちゃうのがすでに境界の弱さなのかしらん)、それもやんわりしたものでした。発言が矛盾していて気持ちが悪いのだって、別に指摘したっていいわけだし、どちらの発言も他人の勝手な意見表明なのだから、わざわざ振り回されるほうがヘンっちゃヘンです。

②伝える努力を怠った
そしてこれ。今まで取り上げたり問題視したことがなかったのですが、これは私にとって結構欠点だなと改めて思いました。
自分の思いや考えを伝えようとしないで、一方的に関わりを切ってしまった。まあ別に良いといえばそうなのですが、まあ多少意識しておいたほうが自分にメリットがあるだろうと思うため取り上げます。

私はコミュニケーションがあまり得意ではありません。
言語にはめっぽう強いのですが、会話となると、なんだかいつ何を話して良いのかわからなくなってしまいます。一般的な雑談にうまくついていくのは難しいことがあります。はやりの人物や芸能にくわしくなかったり、遊びの誘いにノリノリで(?)応じられなかったり。特に複数人で話をしていると、いつの間にか幽霊状態。後からほかの人がその場面を思い返したとき、きっと私の存在は忘れられているだろうと思います。すごく。
そういうふうなので、いつの間にか自分のしらないうちに、自分の所属する組織のなかで仲良し組ができていてもぜんぜん気づきません。いつの間にか私だけポツーンとしていたりします。

そういう人が「ポツーン」に気がついたとき取る行動としては
・輪に入れるようにがんばる
・あきらめる
の2つに大別されるでしょう。
私は後者なのです。

結局、「人との情的なかかわりをさほど求めない」という性格なんだか特性なんだか判然としないわたしの性質があいまって、「諦めるほうが断然お得」判断がはたらくことが多く、基本的に浅い関わりで諦めてしまいます。いじめられたりしたら嫌だけど、まあ陰口とか、特別な仲良しがいないとか、雑談する相手がいない、という程度なら、その場での作業に支障が出なければいいや、という感じです。まあ私だってロボットじゃないので、ある程度気心知れている人がいるほうが楽しいのですけれど。

完全に互いを受け入れる(他者を受け入れるとか理解する、ってどういうことなのかわからないけれど、やけに発達障害ないしは”メンヘラ”界隈では空想的に過剰な、ジャボン玉のような儚くて独りよがりの理想を求めている人が多いように感じます)ことは不可能だし、人との関わりは、そう意識せずとも何らかのギブアンドテイクがあるのだから、そういうことについて「わたしはできないです、でもほしいです。配慮してください(?)!!」なんていうのはおこがましい(*)し、まあ無理だろう、と思います。するならもうちょっと具体的に交渉しないとダメでしょう。

その辺はおそらく試行錯誤、手探りで偶然要素も多いので、全部を言語化するのは難しいだろうなと思います。私はとりあえず最低限「自分の仕事をきちんとやる」ことを心がけております。
また、定型の世界ではそもそも「そういうことを言語化する・分析する」という行為そのものが「冷たい」「ひどい」という評価を受けることでしょう。「なんとなくできる」からやさしい、のだろうと。ほら、「策略家」的な人って、「嫌われ役」でしょう?(イメージですけど…)まあ、できなくて教えてほしい人にとっては困った話ではあるのですが。

そういう理由で、考えた結果私は今のような「最低限の人間関係」でゆうゆう自由に過ごしています。
時々思い出したように寂しくなる、また、「寂しい」と愚痴りにくい(だって自業自得です)のが欠点(わりと痛い)ですが、私としては、自分にはとても合っていると思うし、非常に快適です。おすすめです。今のところベストの方策です。

そういうわけなのですが、今回の場合は、「急に関係を断ち切ってしまい」ました。これは相手に悪いことをしました。
また、自分にとってもショックがありましたし、その前に「悩んだ」ということは、ある程度自分も「その人との関係を続けたいと思っていた」ということなのだろうと思います。
だったら、自分の思いを伝えなければなりませんでした。
混乱して、だめでした。
これについては、次回のカウンセリングで「関係を断つ以外の方法」を考えてみようと思います。
今回はここまで。

*これについては、私が発達障害者の中でもあまりしんどさを意識しないで生きてくることができた、また他者希求度の低さ、二次障害の軽快度合い等が影響しており、一概には「おこがましい」とはいえないかもしれません。状態によるかもしれません。また、「配慮」そのものを必要ないと思っているわけでもありません。現状、私について言えば、そのあたりで手を打つのが一番良い、と判断しているだけです。もっといい方法が有るのならそれが良いのかもしれません。

2016年1月18日月曜日

混乱中。

2回のカウンセリングの記録もしたいのですが、現在混乱しています。
混乱していることを書けるようになっただけ、少し落ち着いたけれど、やっぱりまだ、混乱中です。
複数のことがからまって、いらいらいらいらとして苦しい。早く抜け出したいです。

傍目には、全く普通に見えると思います。
が。
私は混乱しています。

この差がありがたいけれど、もやもやもする。

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2016年1月2日土曜日

どうして続いているのか

カウンセリング16にて、実は言われていたことがあります。
私のカウンセラーさんの所属するちいさな研究会に、私の事例を出させてほしい、ということです。
面白そうなので同意しました。

なぜこうなったかも説明していただきました。
それは、私は今の病院に落ち着くまで、いくつかの病院に行っていますが、どこも長く続けることができませんでした。ところが今の病院では1年ほどは続けて通えています。それはどうしてなのか、という点が大きいそうです。
その他のことも鑑み、研究し、診察・カウンセリングにフィードバックされるようです。

私なりに、なぜ今の病院で続いているのか考えました。
今のところ、以下の要因が考えられます。

1. 「自立支援医療費制度」を利用し始めたこと
2. 今までの病院と特性上合わなかったこと(発達障害の診断はできても、それに合わせた対応はできない病院だった)。今の病院では発達特性を考慮した診察を受けられていることその中でも、「知識・論理」部分のモヤモヤ・興味についてきちんと処理してくれること

自立支援医療費制度の利用

私は今の病院で初めて「自立支援医療費制度」を利用し始めました。
この制度を利用するにあたって看護師さんから説明を受けたのですが、これは「指定医療機関」として、通院先および薬局を固定して役所に登録する必要があります。ゆえに、「これを利用するということは、この病院にきちんと通って、治そうね、っていうことだよ」と説明を受けました。

そのため、制度上、「ドクターショッピング(便宜上この言葉を使いましたが、別にドクターショッピングしていたわけではありませんよ)不可」なわけです。(もちろん転院して登録し直すことはできますが、パニックになってそのままフェードアウト、といったことはできないわけです)

これによって「根気よく通う」ことや「パニックしても逃げない」ことが「当然そうある(べき)事実」として私の脳みそに書き込まれたわけです。どんなに調子の悪い状態を病院に見せてしまっても、逃げないで次回もそこに行かなければならず、結果的に「調子の悪い自分」をきちんと知ってもらえています。

こういった福祉制度というのは、基本的に自分で求めない限り医療機関や役所は何もしてくれません
様々な病院で「受給者証をお持ちの方は出してください」「各種診断書料金」とった張り紙はあっても、「それは自分にも取れるのか」「必要なら声がかかるのか」「自分でいう必要があるのか」という部分は不明確なまま。診療はうじうじ迷っている余裕はありません。「私なんかが福祉の、税金のお世話になっていいものだろうか?」なんて思ってしまう人も多いと思います。
私は実際にそういうふうでした。
福祉制度は、主にTwitterの当事者さんのつぶやきから知りました。本当に動けないときは、こういう手続きはとてもしんどいものです。
本人や周りの家族(ここで家族を出すのはとても嫌なのですが)、理解者がこういった制度に対する心理的ハードルを感じず、制度的ハードルを感じず、使えるといいですね。

今までの病院との不一致・現在の病院のよさ

今までの病院では、上記がなかったことに加えて、特性上苦手な部分へのフォローがあまりなかったことで、不安を抱えてしまったり調子を崩してしまったり、「もうこの人は信用出来ない」「この人は合わない・話す意味がない」などとスイッチが切れてしまったり(一度こうなるとほぼ修復不能)しました。
いくつか思い当たることをあげていくと…

・論理や知識にかかわる説明がほぼなく「ゆっくりでいいですよ」などとばく然と言われる(メンタル系の患者さんなら一度は思ったことがあるのではないでしょうか「そんなこと言ってもゆっくりしてたら破産して餓死じゃ〜」「それができたら治ってんね〜ん」と。)
・質問が「どうですか」といったオープンクエスチョンばかりで不安が積もりに積もって爆発
・細かく長く、しつこい私の質問に医者がギブアップ
・一度パニックになったらもうアウト(クールダウン方策がない)

あたりです。「話を聞いてうんうんうなずいて薬を出される」ではおそらく定型さんでも不安だろうと推察するのですが、発達さん、特に言語性優位タイプはとっても困ってしまいます。診断はできても対応はできない病院、意味ないです。夢みたいな解決策(引っ越すとかずっと私費で休み続けるとか)しか出せない病院も意味無いです。もちろん限界はあれど…。病院でやれることはほぼ投薬とカウンセリングに限られますが、それでもその他の支援機関の情報・制度的情報等、提供してくれないと途方にくれてしまいます。高機能者に必要なそういうものってとても少ない・ほとんどないので、「そうはいっても」というところだとは思いますが…。うーん、困った、ですね。

さて現在の病院ですが、

・制度自体の紹介はないが、質問すると別室で看護師さん(ケースワーカー?)が時間をとって説明してくれる
・パニック時に提携薬局から緊急的に頓服処方・別室休み措置をとってくれる(毎度ごめんなさい)
・(医師が必要と判断したら)かなり発達障害にくわしいであろうカウンセラーさんがつく
・発達特性を考慮した診療…診療においてはそこまで長い時間ではないので感じない部分もあるが、「コーヒーとの相性」や「複数のことができない」ことを踏まえたアドバイスをしてくれたり、漢方治療ができたりと結構お医者さんも発達特性を知っているのではないかと思います。少なくとも私にはこれくらいで充分です。「どうですか」で答えられないときは質問を変えてくれます。書き出してみるとありがたさが増すなあ。
・カウンセリング…発達障害研究経験者なカウンセラーさんがいます。見通しのあるカウンセリング、また、見通しが持てないときや、オープンクエスチョンをせざるをえないときには、「そう言ってくれ」ます。見通しを完璧につけたり、オープンクエスチョンを一切しないことより、この事のほうが重要だと思います。また、一見直接カウンセリングに関係なくても(ありますけど)、私の疑問に思うことに関して説明をしてくれます。知識や論理・言葉の面の好奇心(こわだり)が強く、またわからないことが嫌だと思う私にはうれしい。そういう説明があるからこそ、そこに交えて気持ちを伝えられたり、汲みとってもらえたりしているのだと思います。「知識や論理」を介して徐々に信頼できているのだと思います。これは、子どもと仲良くなって保育園の話を聞きたいときに、初めはプリキュアや仮面ライダーの話を振るのとレベルとしては同じなのですが、違うように見えるために、できないカウンセラーさんもいるのでしょう(そして私なつかない)。

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現在のところの私の考えは以上です。
研究会、どんなふうになるのかな〜。面白そう。
みなさんによいフィードバックがあれば良いなと思います。


2016年1月1日金曜日

新年のご挨拶



あけましておめでとうございます。
旧年中は大変お世話になりありがとうございました。
今年もよろしくお願い致します。

年末年始、いつもと違う予定に環境、家族が親密になる時期。
楽しみでもあるけれど、やっぱりしんどい。
そういう人もいるでしょう。

私はそうで、年末の最後の最後につらくてつらくて、調子を崩しました。
人がながく近くにいると、コミュニケーション障害と触覚過敏のコラボで、たとえ家族だってなんだって、私はとても疲れてしまう。それはとても理解されにくいことです。やっぱり、普段の生活では、そんなの、理解されにくいですよね。わがままだって、冷たいって、感じちゃうでしょう。それは責められません。それもその人の尊重されるべきこころなのです。

けれども、わたしのこのしんどさを、だぁれもわかってくれないような気がして、やっぱりとても悲しくなって、怒りに転換されてしまいそうになった。

そんな状態を救ってくれたのは、インターネットで繋がっている人の「読んでるよ」「わかってるよ」の、存在そのものでした。
そっと見ているよ、という、無言のハート。

そんなものに救われて、生きているなあ。

今年の年賀状イラストは、ニホンザルも書きましたが、色んなサルを調べていっぱい書きました。その中でも「ナマケモノ」がお気に入り。
なまけてることは、ズルくない。そういう戦略なんです。
上手になまけて生きていかなくちゃね。
それってとっても難しい。
ナマケモノは、選択上手さんです。
大事なものを選んで、大事にするのがとても上手。

それでは、今年もこんな私ですが、よろしくお願いします。
みなさまにご多幸を。


カウンセリング16

カウンセリングの取り扱いを認知行動療法で

カウンセリングでした。
今回は近況を少しと、前回の総括を受けて、次のステップ「感情の取り扱い」のための基礎となる知識を確認しました。

近況に関しては、仕事をする前よりは疲れているね、ということを確認。また、これから少しテーマに沿ったカウンセリングになるので、言いたいことがそれに埋もれてしまわないようにきちんとそういう時間は取ることを明言していただきました。

さて、今回は、使用する方法の概要です。

認知行動療法

名前は知っていましたが、それ以上のことはほぼ知らない状態でした。普通の傾聴カウンセリングよりは幾分現実的で実用的なのだろうとぼんやり思っていました。今回、おどういうものなのか具体的に教えていただきました。

認知行動療法をする派閥では、精神疾患やストレスといったもの(に限らず全てのことなのですがね)は「本人と環境の相互作用」で起こる、と考えます。
したがって、

・問題は、自分でも環境でもなくその軋轢
・しかし、軋轢を除くためには、自分の一部ないしは環境の一部を変える必要がある。そのため、便宜的にあるポイントについて「問題」と設定しているにすぎない。
・すなわち、どこを問題として設定するかは任意である。そこにこだわったり感情的になるのはあまり意味がなく、得策でない。ただし、命に関わる部分など、一定のラインは必要。
・つまり、大事なのはあくまで「結果」。
・認知行動療法とは、現状のストレス要因のうち変えやすいところを変えてちょっとラクしよう、ということ。そして、その中で比較的「自分の努力で変えやすい」のが「認知」と「行動」であるために「認知行動療法」と名付けられているそうです。ですから、環境の方をいじれるならいじってもよいわけですし、認知・行動以外の自分の部分を変えたって別に結果が良ければそれでいいのです。

※個人的に傾聴型カウンセリングだと、上記青字の部分で無駄にうじうじする印象があります。ただ、「話す」こと、「聞いてもらう」ことそのものが癒やしとなる人にとってはそれでかなり効果があるのだろうと思います。そしてそういう人はこの世の中の大多数を占めていて、さらに「定型さん」はかなりの人がそうでしょう。非定型だってそういう面はもちろんあります。
ただ私の場合「カウンセリング」という専門家との対話でそれをする意味がわからなかったり、また「聞くだけ」と言われても設定が大きすぎて余計に混乱を招くのです。なんなら何も言われず普通に傾聴されると、大きく調子を崩すことも。そしてそういう「発達障害によくある不満」なんかは別のはけ口の方が効率的です。「発達障害以外の不満」に関しても、色々戦略を持ったほうが、毎回カウンセリングに頼るより自分で解決できるようになったほうがお得でしょう。と思っております。


今回はここまでで、次回から実際にやっていくそうです。作業としてはかなり地味だそうです。頑張って興味がなくてもやっていかないといけないかも〜。