2015年12月26日土曜日

わからないことについて

わからないことには2種類ある。


ひとつはとっかかりがあること
これは面白がりやすい。
ことばに変換しやすい。


もうひとつはつるんとしている
これは面白がりにくい。
ぼうぜんとしてしまう。
言葉にしにくい。
でもいろんなことと有機的なつながりを感じる、「ほんとうにわかっていること」も
これとよく似た形をしている。
もしかしたらおなじかもしれない。
わかっていることのほうが、ことばにするのは難しい
言葉は不便。
もっと適切な表現があるのに、感じることはもっと豊かなのに。
そういうことだ。
それはわからないことでもあるしほんとうのことでもあるしわかっていることでもある。
それはことばで表現してみたり、他の手段、ダンスや声や絵や、立体にすることもあるかもしれない。組み合わせかもしれない。

そのごく一部のすこしのトゲが「わからないけどことばにしやすい」ことで言葉にして思考することに没入しやすい。それがあるのは安心だ。




でもこういうのもある。
いつも考えをペンディングしておくと、こういうものに出会うことがある

こういうときはとても興奮する。
なんとかしてうまく形にしなければと必死になる。


なんにせよこういうことのひとつひとつをあるべき姿をみつけて、そうしてやる必要がある。
それは生きることよりずっと大事なことだ

そうして全部はつながっていることや世界のあるようをひとつひとつたしかめないととてもここにいることなんてできないでしょ?

2015年12月23日水曜日

カウンセリング14,15

カウンセリング2回分です。
この2回はほとんどこれまでのまとめ・様子見のような状態。

14
・0か100かでしかエネルギーを使えないことのコントロール
・生活サイクルの安定化

が課題ということを確認。
仕事に関しては、医療的介入は今のところ薄めでいいだろうということです。生活サイクルが安定することで、すべての面が改善されるだろうとのこと。
また、他者への怒りがわいてくるということは、ある面抑うつの改善による部分があるだろうとのことでした。

どこまで出来るかわかりませんが、まあそうするのが社会生活上必要だろうと思います。

15
15も同じような感じでした。
記述の量が多いため、60分の枠にするかもしれないとのことでした。

また、「感情のコントロール」も課題だろうということ。
そのために、感情を言葉にする訓練が必要だろうとのこと。

その関連として、「不安などのマイナス感情や感覚を意識することの必要性」の話がありました。

歩いていたら、車が飛び出してきて、「うわっ怖い」と避ける。
ここで「怖い」という感覚がなかったらどうなる?

という話でした。
私はこのとき「その瞬間」は「怖い」とまでは意識の舞台にのぼらないけれど、体は避けるよなあ。おもしろいなあ。なぜ「怖い」と後から認識する必要があるのだろう?
と考えました。
次の経験に生かして命(種)をつなげる戦略、そして、その場では反射で動く必要があること…。また、そのままでは不安を「処理」しきれず、不安が残ってしまうため「怖い」とラベルし、「終わった」というBOXに入れてしまい、次の行動に移す必要がありそうだ。
と考えました。けれど、完全に納得行くところまで考えが及ばず、面白く考えました。したがって「わからない」と答えました。

すると、先生は「怖い」とわからなかったら、死んでしまうよね、と言いました。

私は急激に冷めました。「そういうパターンのやつか、なーんだ」と。
いきものが不安や恐怖を感じるのは生きるための危険回避行動として必要だからだ、というのは私のなかでは「よくあるパターンの話」です。
ただ、本当に実感しているかはわかりませんが…。

なんとなく私が感情を爆発させてしまったり、コントロールしにくい部分とはずれたな、と思いました。

とりあえず、この日はここまで。

※※※

私の場合「圧縮能力」「ラベリング能力」の不全ないしは「細かすぎる表現」に問題がありそうだと今は思います。
たくさんの体や脳の反応を「怖い」に「ひとくくりにすることに納得がいかない。・抵抗がある」と思います。そんな乱暴な処理はできないのです。もっとたくさんのことを感じられるのに、どうして単純化するのか。そのほうが共感しているふりがしやすく、群れで生きるにはおそらく効率が良いのだろうとは思いますが。納得はできません。そして、納得行かないことをするのはすごく苦痛です。

2015年12月10日木曜日

もりの「部屋が汚い」メカニズム/ADHDとASD

私の部屋はきれいとはいえません。

ものが散らかっています。

この「片付けられない」「部屋が汚い」というのはしばしばAD/HD(注意欠陥多動性障害)の症状として言われます。

ただ、私はAD/HDの診断を受けておらず、自覚症状としても「うっかり者」「おっちょこちょい」「とりあたま」という自覚は充分にあるものの、障害であるとは思っておりません。どちらかというと純粋なASD(自閉症スペクトラム)に近いかな、という感触を自分では抱いています。また、診断としてもASDのみしかでていないこともあり、そうだろうと思います。

ところが、私の部屋は散らかっている。
また、ネット上のスクリーニングテストでは「可能性あり」。(もちろんスクリーニングですので、信頼性は高くありません)

さて、どうしてだろう?

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AD/HD者の「部屋が散らかる」

これはあまりよく知らないのですが、どうやらAD/HD者の部屋が散らかる要因は「注意力散漫」に大きくあるようで。

たとえば「必要なものと不要なものを見分けられない」「片付けているうちに興味がそれて、ものがどんどん出しっぱなしになり、溢れていく」「片付けるためのパターン・ルールを決めたり計画することができにくい」あたりが要因となって、ごちゃごちゃになってしまうようです。

どんな人でも多少はあるようですが、それが顕著に出てしまうのが特性たる所以ということなのでしょう。

わたしの「部屋が散らかる」

私の場合、上記の要因で部屋が「過剰に」散らかることはありません。つまり、健常もしくはグレーの範囲に収まっています。むしろ、部屋をキレイに保ちたい欲求はそこそこ強いです。掃除は好きではありませんが…。

ところが、「部屋が散らかる」。ものすごく散らかります。

その要因は、と考えると。

①モノが多い…コレクション欲求がとても高い。気になる言葉が書いてある広告、ちょっとした落書きからかわいいポストカードにいたるまで、あるとあらゆるものをとっておきたい欲求が非常に強いです。なんならつねに四次元ポケットに持ち歩いて、そのまんま取り出せるようにしたい。すべての魅力ある物事をきちんと記録・記憶、そのままの状態で保存・取り出ししたいのです。その手がかりとして、ものをとにかくためてしまう。先日はダンボールにあふれんばかり、といった状態の紙モノを整頓しました。数冊、スクラップブックが必要そうです。

②考え事が多い(+忘れっぽい)…考え事や今やっていること、ペンディング事項について、どこか見える位置に「実物」を配置しておかないとどういう道筋でどういうことを思考していたか思い出せなくなってしまう。そのためのしおり、またはウィンドウとしての「散らかし」です。自分を中心としていくつかのものを配置しておき、そっちを向けばそのモードに切り替えられる状態(すなわち、やりかけの状態)にしておかないと、忘れてしまうわけです。そのロスがもったいなく、恐ろしい。
おそらく極度に忘れっぽいわけではないのですが、考えていることが多く、また刺激に対して反応しやすいため、「ある物事の中にあるまた別の物事」にパッと注意が切り替わりはしゃいでしまう→あれ、重要なことを考えていたはずなんだけどな…とか、ふと見た方向に鳥の群れが居てはしゃいでしまって、あっというまにそっちに気を取られてしまうなどのことが起こるために、「記憶すべき事」が多すぎるのだと思います。また短期記憶に関しては若干弱めではあるので、そこも少しは関わるでしょう。
思い出すためのシンボル・付箋や名前をつけるのが苦手なのですね。これは以前書いた「ラベリング・圧縮の苦手さ」に繋がることだと思います。

以上の2点が非常に大きいのではないかと思います。どちらも特性に関わっていますが、より面白いなぁと自分で思ったのは②。これは、「やっているうちにどんどん注意がそれて散らかってしまう」というAD/HD者の散らかり方とは、言葉はちょっと似ていますがぜんぜん違うと思うのです。だからといってASD者に特有とか特徴的というのもよくわかりませんので、とりあえず私にはこういう特質があということでしょう。

※部屋の写真、載せようと思ったけれど自粛…女の子の部屋やからな!笑

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AD/HDとASD

さてこれで私の「部屋が散らかる」に関しては、「結果が同じだけで、メカニズム的にAD/HDとは全く異なる」ということがわかりました(書いているうちに、刺激への反応のしやすさは…?となりましたが、仕事等に大きく支障はないので許容)。

「発達障害」というと、「AD/HD・ASD・LD」なんて並べられることが多く、また最近では併発することもよくある、といわれています。また症状が似ていて混乱することもよくあることです。少し前(DSM−Ⅳ)まではAD/HDとASDの併発はない、とされていたこともあって、「もう発達障害、でひとくくりでいいじゃない!」なんていう考えもちらほら。

しかし、わたしとしては純粋なASD者とAD/HD者では明らかに違うように感じます。ここをポイントに据える非常に嫌なのですが、やはり「(症状としての)コミュニケーション」に大きく差が有るように感じますし、また「多動」の出方・メカニズムも異なるように思います。個人的な感触ですが、「とにかくモーターが入っているように動いてしまう」のが核のAD/HDと、「過集中や視野の狭さおよびその他の特性絡み」のASD、といった感じ。

対策や当事者としては併発もありますし、一緒くたのような理解でも別に構わないのですが、「診断・治療・療育・研究」といった専門分野においては、慎重に調べてほしいなあという気がします。




2015年12月6日日曜日

耐えられない

職業センターに行くようになって、かなり疲れています。

センターでやること自体は難しくないのですが、それに200%の力を使ってしまうようで。
帰り道で寝ながら歩きそうになっています。

慣れないバス・バス酔い・騒音に、慣れないセンター、人々は意外とストレスのようです。しかも、センターは職場環境以上に学校の環境に似ているふしがあり、いわゆる「お説教めいたこと」が多く、いちいち真に受けてしまう私・その実すでに限界を越えている私は「もうこれ以上頑張れないよ〜」とパニックしかけながら過ごしています。

今回は、その「お説教めいたこと」が原因で目に見える形でのパニックが起こったので記録。

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一週間の終わりに、「来週の目標」を決めます。
初めは女性のスタッフさんに「書いてください、もし思いつかなかったらこの例を挙げた紙を見てもらっても構いません」と言われて、特に思いつめることもなく書こうとしました。
ところが。その途中で別の男性に声を掛けられ。

「もりさんはセンターが終わったらどこに行くか決まっているんだっけ?」

といきなり聞かれました。
意図がわからず、世間話なのか必要な話なのかもよくわかりませんでしたがとりあえず答えたらスッと去って行きました。

「?」と思いつつも気にせず書こうとしたら、また現れ。


「あなたはもう次の就職先が決まっているから、それに向けて必要なことを書いたほうがいいね。就職したら、悩みを相談したりはできないから。」

この時点で私の頭は「就職したら悩みをそうだんしてはいけないのか。それは大変だ。どうしよう。でも、今まで他の人から聞いている話とは違う。」という混乱でいっぱい。続きをうまく聞く(聞き流す)余裕がありません。

「社会に出たらこことはぜんぜん違うからね。一般的に」

ぜんぜん違うならわかんないじゃん!!しかも一般的に、というあいまいワード。
でも「そうなのか・・・私はダメだ・・・」と一気に混乱加速。

「だから、今、できるだけ悩みを解消して行けるように目標を決めたほうが良いね。」

この人は何を求めているの???私にどうしてほしいの???これ以上頑張れないし、そもそもカリキュラムで目標というのはすでに決まっているのに、そこに新たに追加なんて、私にはできないよー!!!
むしろ「無理しない」のが私の目標なのに、もっと頑張らなくちゃいけないの???どうして今までの私の考えと反対のことばかり言うの???意味がわからない。

となってしまい、この時点で私は静かにパニックして固まっていました。
固まった私をみてそのスタッフさんは

「わかった?」

と一言。返事がないので確認したのでしょう。
わかんない、わかんないよ…と思いながらも、まだ出会ったばかりのよくわからない、なれていない人にそんなこと言えませんし、声を出したら混乱が強くなりそうです。それに、どうもこの人は聞いていると「一般的に」という言葉が癖で、「普通」が好きなようだ。この人は信用出来ない。という気持ちにもなりました。また、これはどうしようもないことですが、私は彼の発声が苦手です。初めて聞いた時から、声が叩きつけてくるようで「あ、ダメ。怖い。」と思いました。でもそんなことは仕方がないですし、それだけでどうこうなる程ではなかったので、適度に薄く関われば問題無いだろう、と思いました。ところがこうなってくると、もう「この人、怖い」に変化。

そうしてしばらく固まっていましたが、少ししてようやく「でも、ああいう説教っぽいことをいう人はいるし、私と彼は別の人間だから関係ない。」ということを思い出して、カリキュラムに沿った目標を書いて提出しました。

すると、ちょっと目標がばく然としていたのか、別のスタッフさんから「具体的にはどういうこと?」と聞かれてしまい。
この時点でまだ混乱しているわたしに「どう」というオープンクエスチョンをうまくかわしたり、答えたりすることができなくなっていました。頭ではエラーが鳴りっぱなしです。
もだめだ〜。ということで、パーティションで仕切った別室でしばらく休みました。

・新しい環境
漠然とした、それでいてプレッシャーなことば
・オープンクエスチョン
・苦手な音(声)

が重なりに重なった結果です。特にNGだったのが二番目「漠然とした、それでいてプレッシャーなことば」。どうしたらいいのかわからなくなってしまいます。そのくせ、「もっとがんばらないとダメだ」と思ってしまう。多分普通の人は普段からそこまで張り詰めて生活しておらず、また言葉をそのまま受け止めてしまうこともないため、多少強く説教しても大丈夫なのだろうと思います。学校が典型ですね。けれども、私はそうするとダメなのです。
また、見た目は余裕で活動しているように見えるであろうため、「もう少し頑張らせても大丈夫だろう」と思われてしまったことも原因かもしれません。その実、常に100以上のパワーを使い果たしている状態、というわけです。自分の中ですら、それにあまり気づけていませんでした。活動そのものはものすごく簡単であるためでしょう。けれども、生活を振り返ると、センターの翌日はこんこんと眠り続けて(しかも眠りが浅く、寝ても寝ても疲れている状態)いるのです。ものすごく、疲れていたのです。

さて、そんなパニックのあとですが、ここで早退したら、もう来週からセンターにいけなくなってしまうような気がしましたし、とりあえず頓服で収まったこともあり、活動に戻りました(これも無理があったのか…?わかりません)。
活動そのものは全く問題なくできました。
そして終礼(帰りの会みたいなものがあります。やっぱり職場というより学校みたい。)。

終礼では全員が本日の感想を述べたあと、スタッフさんも一言話します。
そこで男性スタッフさんが話したのが、だいたい以下のようなことです。

寒くなってきましたので体調に気をつけてください。正直、月曜日に休むっていうのはカッコ悪いよね。「体調管理できてませ〜〜〜ん」って言っているようなものです。休みというのは遊ぶためにあるわけではなくて、「リフレッシュ」という言葉がありますが、また元気に労働するためにあるのです。
それからもう1つ。社会に出て働くというのはどういうことでしょう。◯◯さん。
◯◯さん「お金を貰って自立することです。」
そうだね。まずお金のことが出てくる。自立とも言ってくれたね。でも、それだけではいけない。働くのはお金のため以外のこともある。それを考えてほしい。僕は何十年も働いている。

というようなことを言いました。全てのことに「???」と思ってしまって、いつもなら頷きながら聞くのですが、全部首を振ってしまいました。極度に嫌なことや理不尽なことを言われたりすると、もろに態度に出てしまうのも、私の悪い癖なのです。我慢ができません。今回、部屋を飛び出して帰宅しなかっただけ、頑張った方なのです・・・。中学校ではとびだして帰宅していましたし、高校では涙が止まらなかったわけですから、少しは進歩しているのです・・・。
先の一件があったため、余計にしんどかったです。

「休んではいけない」:突然倒れても這ってでも(比喩でなく)行かなきゃ、となってしまう。アルバイトで「這ってでも来い」と言われて「もし這って行くと、何時間前に家を出ればいいのか」計算して、絶望したことがあります。
「カッコ悪い」:仕事は「仕事」なのになぜ人格攻撃をするのか。あなたにそんなことをする権利はない。おかしい。と思う。
「休みは遊ぶために〜」:それはあなたの意見である。遊ぶために休む人もいていい。と思う。人間は全員が全員労働に命を捧げているわけではない。
また、そのように思うと私は休む事ができず、リスク管理のために家に引きこもって「かぜをひかないように」「ねぼうしないように」と考え続けてイライラそわそわして休みを過ごしてしまうのである。
「仕事はお金のためだけではない」:それはあなたの意見だ。押し付けないでほしい。と思う。趣味のついでに仕事をすることの何がいけないのか。そうやって働くからといって仕事をおろそかにしてしまうことにはつながらない。

主にこんな思いが頭をよぎりました。
説教っぽい割に浅いことを言われ続け、また全体に話の結論が見えずばく然としており、気持ちが悪くていたたまれなくてとてもつらかったです。キャーッとなって逃げ出したり泣き出したりしなかっただけ頑張った方なのです。

もちろん、これは「私個人に」言ったことではないのでしょう(もしかしたら私がその日に彼のせいでパニックしたあてつけかもしれませんが)。そして、これをここまで受け止めてしまうのは私の自他区分の問題ですから、私の課題です。

けれども、こういう人もいるのだ、ということを、せめて職業センターの人は、しっているべきだよなぁと思います…。職業センターの書棚、発達障害の本だらけなのになぁ。高機能者・普通に見えるタイプ・受動型に関しては、やっぱりどこにいてもわかってもらいにくいし、正直「配慮してほしい」とも思わないので、どうしたものかなぁ、と思います。こういった場合、別室に行かせてもらったりしたほうがいいかもしれませんね。自他区分は、すこしづつできるようにはなってきましたが、まだまだのようです。完全にうまくできるようになるのはいつになるのか、それとも完全にはできないのか。

2015年11月29日日曜日

カウンセリング13B :人間関係の弱さ

先回の記事の続きです。

男性関係(人間関係)と言葉遊び

カウンセリングメモの一部として「男性関係で意図せず思わせぶりにしてしまう場合がある(何回か揉めた)」ことを提出しました。
また、現在はすでに鎮静しましたが、最近も少し揉めた点についても。

心理士さんより「これはあなたにとっては侵入に値する経験で、怖いだろう。危険もあるので、詳しく聞きましょう」ということになりました。
確かに、今まで大事にならなかったのはひとえに「運が良かったから」としか言いようがありません。

これまで「嫌だ」「怖い」と感じたアプローチ


高校生。メールでは普通に楽しめていたのだが、よくわからないうちに「付き合おう」「付き合ってくれるなら観覧車に乗ろう」みたいなよくわからないことを言われ始めた。意味がわからないし気持ちが悪かった。直接的に「付き合おう」と言われたことはなく

メール:「次の定期テストで僕が勝ったら付き合おう(私は学年トップ争いをしており、彼は普通か普通より下の成績である。勝てるわけがない。)」「いや、やっぱり冗談。もっとちゃんと言うよ…(勝手にしてくれ)」「あれ、なんか察した?(察しねーよ!察してなんかやんねーよ!)」「カップルだと無料で乗れる観覧車が有るんだけど、一緒にカップルのふりして乗ってくれない?待ってるから(重い女か!)」「(行かなかったら)観覧車、キレイだったよ(重い女だ…)」

などというメッセージを受信。
「自分から誘うような意気地はないが、私が乗って来る自信はある。察して告白してきてほしい」というオーラがばんばん出てきて気持ちが悪かった。私はただメールの文面で遊んでいただけだったのである。「人間関係」についてなんて考えてもいないし、相手の気持ちが、こういうメールを受信・およびこっちへのベクトルがにじみ出ているのを感じるまで、全く分からなかったし、考えようとも思わなかったと思う(考えているつもりではあった。自分でもつめたい人間だと思うが、冷たいだけじゃない)。


大学生。ある委員会の集まりでちょっとハブられ気味の男の子がいた。私は「さびしさ」「恥」に敏感である。いたたまれなくなってしまう。テレビなどでも、そういう場面は観られないのである。単に、そういう自分のいたたまれなさを補うためであって、これはやさしさではないのだろう。でも、そういうことは意識しないで、つい横に並んで歩いたり、話しかけられたことに必死に笑顔を見せて応じたり、周りにその人の話をつなげようとしたりしてしまう。やさしさまたは好意に見えるだろう。
いつからか彼は私に帰り道に無理やり自分の通学路を合わせて、ぴったりついてくるようになる。そして電車の15分間、ずっと「自分は人間関係にトラウマがある。否定されるのが怖い。」という旨の話をし続けてくる。私は彼を拒否することができなくなる。
そうして数ヶ月帰り道についてこられる。
結局避け続けていたがもう限界なので告白の誘いに応じる。とにかく衆人環境を確保するために学食以外の場所は拒否し、学食で告白させる。そして拒否した。
彼は学校を休むようになった。知ったことではない。彼は私にとって全く興味の持てない人間であったためだ。メールすらほとんどしなかった。
数ヶ月してまた連絡があり、手紙を渡される。気持ちが悪いし、期待されたら困るのでその場で破って捨てるところまでを本人に見せる。「受け取りました。でも、読みません。」と言う。

大学生。ともだちだったのに、なんだかベクトルが変わってきて、「気持ち悪い雰囲気」が出てくるようになった。連絡を断つ。

友達だったし、自分でも面白くその人で遊んでいたので、付き合ったが、やっぱりこっちに向かうベクトルが怖くて気持ちが悪くてダメ。完全に私の落ち度である。


大学生。ネット上での言葉のやり取り。私はその人の発する言葉で言葉遊びをしていた。
たとえば「ちゅっちゅ」という言葉をもらえば「ちゅっ」と返すことは、私にとってキスでも何でもないのである。ただのゲームである。言葉のあやとり。言葉のキラキラ。そういうものである。
でもどうも本当は言葉というのはそういうものではないらしい。よくわからないけれど。そうして「全身舐め回したい」「口中犯したい」などの物騒なメッセージが来るようになったのでとても怖くてシャットアウト。


社会人。合意のもとで付き合ったが、よく考えると経済的に自立していない寂しさをわたしで埋めていたのかもしれない。就活がうまくいかないときに、社会人をしていた私がしんどそうな状態。毎週家にいた。「主婦になろうよ〜」などが口癖。都合よく依存関係に持ち込まれたあげく、相手が経済的に自立したらすぐに捨てられたのかもしれない。最終的に「もうあなたの面倒は見きれない」と言われる。面倒を見てあげていると思っていたらしい。確かにわたしも「面倒を見てもらっている」と思っていたし、それが楽だった。私はどちらかというと「恋人」ではなく「面倒を見てくれる人」がほしいのかもしれない。いい関係ではあったし、悪いものではなかった。よき理解者であった。でも、共依存的側面は否めない。


現在。「3」の続きである。解決済み。
現在すぎるので詳細書かず。

お兄ちゃん欲・さびしさへの同化・言葉が含む「気持ちやりとり」の弱さ

上記のような事があった。他にも多少はあったが、まあそれは普通の範囲内だろうと思う。私の弱い部分がトラブルを招いたと思われる経験だけを抽出した。だが、正直なところほぼこれが全てである。トラブルしかない。そして私の気持ちがわからない。「好き」というのは難しい。

上記を考えるに、見出しに示した

①お兄ちゃん欲:面倒見の良い・頭のいい(自分と話が合う)人に面倒をみてもらいたい、甘えたい欲求。長女(家族関係)由来か。私の家族は少々機能不全だとやはり思う。
わたしの言葉遊びに付き合ってくれる人はあまりいない。聞いてくれても理解できる人はあまりいない。(今はわりとインターネットがあるので心地よい)
私の家族の絵です。こんなもの描きたくないので、殴り書き…

さびしさへの同化:自他区分の問題および常にある居心地の悪さ由来?「お兄ちゃん欲」も同根と思われる。
③言葉が含む「気持ちのやりとり」の弱さ:言葉や論理への強さにたいして「気持ち」がほとんど赤ちゃんという凸凹からくる問題。言語理解はできている(よく発達障害者でわからない、といわれる比喩表現も完全に分かる)が、そこに含まれる気持ちの理解に偏り。気持ちより面白さや興味の衝動が優先。「人と遊んでいる」というよりは「その人の知識や教養・言葉遣いおよび体と遊んでいる」という方が正確。

の3点が大きく問題だろうと自分では思考した。

この問題はまだカウンセリング及び観察(今後も注視が必要との心理士さん判断)を続けるため、今回はここまで。

2015年11月28日土曜日

カウンセリング13A

カウンセリングでした。

今回は、とても長いメモでしたが、主に「生活記録表」と「最新3つのブログ記事:新しいことは苦手だけどオキシトシン関連フラッシュバック関連」を見せました。その他簡単なメモで「お団子モデルの論文や書籍はあるのか」「男性関係で意図せず思わせぶりにしてしまう場合がある(何回か揉めた)」ことを提出しました。
それぞれに濃かったので、これからさらに深めていきますが、今回話したこと。

フラッシュバック(タイムスリップ現象)について

記事については、おとしどころがついていることもあってとくにコメントもなし。ところどころ「ええっ!」とか「確かに」と言いながら読んでいました。
また、タイムスリップに効く漢方の情報も見せました。私自身が自分の状態が漢方が必要なほどなのか評価できなかったためです。そうしたところ「おそらく杉山(杉山登志郎先生かな)先生のグループの提唱しているものだね」とのこと。

私はわりと情報が早くて、かつあまり偏っていないらしいです(牛乳が原因だとか育て方が原因だとかそういうものに騙されていないらしい)。よかった。

漢方に関しては、必要かどうかは主治医の先生に相談してみましょう、ということになりました。

投げかけられたのは、「では、あなた以外のタイムスリップ経験者は、どんな対処をしているのだろう?」ということ。
私は割りと落ち着くまではどうしようもないのですが、それ以外の対処はあまり知りません。もしあったら教えて下さい!

オキシトシンについて・お団子モデル

これは、心理士の先生が「そこまで詳しくないんだけど」と言いながらお話してくれました。

少なくとも、堂々と発達・自閉症の研究をしている、と名乗れるような人は「オキシトシンで自閉症が治る」「自閉症は必ずしも治す必要のある”疾患”」とは言わない。
専門家でも、自閉症はこういうものだ、というのは、説明がまだできない。できるのは「症状(特性)」の説明のみである。したがって、自閉症=コミュニケーション障害というわけではない(今後確定する可能性はなくはないが…)
ただ、自閉症でも、どうしても「社会にでる」上で障壁になってくる症状を緩和する薬の研究というのは有益である。

→【これは私のたとえ話です】花粉症の薬を飲んでもアレルギー体質のままではあるが、仕事はしやすくなるんなら飲めばいいし、飲みたくないなら飲まなきゃ良い。副作用があるのはどの薬も同じ。そのリスクベネフィット選択は常についてまわる。自閉症に関しては特殊能力とのトレードオフ関係になる可能性があるので、ちょっと選択がつらいだけ。

心理士の先生は「オキシトシンについてはよく知らないんだよね〜、調べておこうかな〜?」とのこと。点鼻することや、最近実験したこと、男性限定であったこと、女性は子宮の収縮が起こるホルモンなので実験していないことなど、少しお話しました。
最終的に「自閉症にオキシトシン」というのは「報道の問題ですね」「そうだね、僕もそう思う」というところに落ち着き。ブログの記事に書いた文章どおりの意見にまとまりました。

ただ、私としては結局「自閉症ってなんだろう?」「オキシトシンとの関連は、どういう仕組みになっているのだろう?」という部分をもう少しハッキリと納得して記述したく思います。そのため「お団子モデルの論文や書籍はあるのか」というメモを見せたのでした。
お団子モデルは論文にはなっていないようです。また、そこまで読むことを勧めたくはないとか。



こちらの書籍に記述があるとのことでした。
書籍はかなり専門的なもののようです。
しかし、だから勧めないというわけではなく、読むことはそんなに難しくないが、「現象学」ということで「この疾患・障害はこういうものだ」というようなことがたくさん書いてあるので、私が「自分のあり方」「自分の障害」について揺らいでしまい、混乱する可能性があるからとのこと。また、オキシトシン研究とはかなりベクトルが異なるため、あまり意味はないだろうとも。
読もうかどうか、迷っています。自分で見ないと納得しない性質・衝動と、混乱を避ける理性の戦いです。最近、考え事やつくりたいもののイメージで頭が圧迫ぎみなので、あまり溜め込まずに読むのも手だとは思いますが。購入しようとは思わないので、まあしばらく興味を寝かせておいて様子をみようかと思います。

ひとつ目の記事は以上にして、男性との関わりについては別立てにします。
生活記録表は、やはり私の感情の不安定さの原因の分析(タイムスリップ、過集中、過敏あたりが今のところ上がっている大きな原因)によいということで、続けてファイリングすることに。記録表は主治医の先生にも見せてくださいとのことで見せました。
漢方は、タイムスリップに効く組み合わせは主治医の先生に相談し、しかし薬局にないとのことで、「あれば試してもいいけど、取り寄せてまでは必要ないと思う。」ということでなし。代わりに、以前出ていた「抑肝散(ツムラ54)」を再開しました。私の不安定さにとても良く効きます。私の場合不安定さの原因がタイムスリップに限って多いわけではないので、それがいいのかも。


2015年11月26日木曜日

新しいことは苦手だけど

さて、以前書いていたのですが、新しい仕事までの間、生活をととのえるために職業訓練に通う場所の見学に行きました。

駐車場があいておらず、ほとんど使ったことのない地元バスで。
行くとしたら想定される便で行きました。

私は公共交通機関をうまく使いこなすのが苦手。
「わからない」「不確定」が多くて頭がパンクしてぼんやりしてしまいます。すごくダメです。就職活動というものが、できなかったのも、この理由がとても大きいです。
ある程度わかっているものや、本数の多くて安心しやすい都会の地下鉄の、視覚的に記憶している線なんかは比較的大丈夫です。車にしても、やっぱり経験があるところ以外はすごく抵抗が大きいです。
何回か慣らしたり、ものすごく早い時間に出たり(遅刻することがとても怖く、世界が崩壊するような気持ちになります)。そんなことが必要です。

今回無事にバスに乗れたことで、なんとか通えそうだと思いました。

作業内容は事務や倉庫業務の練習。おそらく私には簡単ですが、学べることは色々有ると思います。
作業の音が響いて痛かった(のちに、偏頭痛や吐き気が起きた)ので、耳栓やヘッドホンをしてもいいか聞けました。障害者職業センターの支援室だとわかっている安心感もありますが、聞けたのはよかったです。蛍光灯のまぶしさは、デスクライトは気持ち悪かったですが、通常の天井のものは大丈夫でした。
自覚していなくても、バスの刺激や酔いと、音や光の刺激、初めての場所、ということなので、自衛しながら通おうと思います。

少しづつ生活を整えて、余暇をもちながら長く働く(私は余暇に何かを作ったり描いたり書いたりしないとおそらくうまく自分をコントロールできない)ように、していければいいなと思います。

ものづくりも、ちまちま進めています
お絵かきや洋服作り。
常にそういうことは、していたい。

2015年11月25日水曜日

自閉症・コミュニケーション・オキシトシン

オキシトシンがコミュニケーションの困難を改善することが少し前話題になりました。

NHKの記事
「うちの子流」記事
使った人の感想

などなど。

「オキシトシン、使いたいですか」なんて命題も話題になったりしました。

これはこれで議論があっていいと思いますし、思う所があるのですが、なんだかもやもやしてこの話題についていけなかった私です。
それは、なぜかというと、「自閉症はコミュニケーション障害ではない」「自閉症の核はコミュニケーションではない」と感じているからです。

もちろん、まだ研究段階ですし、自閉症がコミュニケーション障害だとされることはあるかもしれません。
しかし、それなら私は自閉症ではなくなるかもしれません。
わたしはそこが自分の「自閉症」の核だとどうしても思えないのです。

自閉症には色々な症状があります。そのどれが当人に当てはまるかは、個人差があります。けれども、どこか核が同じようである。だから、同じ障害として扱われているのでしょう。もしかしたら、今後研究が進んで「症候群」といった認識になったり、幾つかの病気や障害に別れるのかもしれません。実際に、アメリカの最新DSMでは、「SCD(社会コミュニケーション障害)」という障害に、従来自閉症とされてきた人々の一部が診断が変わる可能性が出てきています。
自閉症が一体どういうものなのか、何なのかは研究段階ですから、確かなことは言えません。したがって、オキシトシンについても研究することはいいことで、すすめるべきだと思います。

また障害というのは人と社会との関係によって発生するもの(ex.自閉者者だけの社会では自閉症的な行動は「普通」となる)である以上、現在において「コミュニケーションの困難」が大きな障害になる以上、やはり「自閉症者のコミュニケーションの困難さ」というのは症状として、診断基準としてあるのでしょう。それは別によいとも思います。

ただ、「自閉症=コミュニケーション障害」ではなく、「自閉症の症状の一部としてコミュニケーションの困難さがある」、もっと言えば

「自閉症の二次的な症状として、結果として、コミュニケーションの困難さが現れる場合がある

のだと思います。

また、「コミュニケーション」とは何でしょう?
その定義がそもそもきちんとされていない。

オキシトシンの実験においては、「表情の読み取り」が計測に使われ、また、本人の感情の動きも観察されたようです。
また、実際に使った人は、安心して話しかけることができた、などという人もいるようです。
オキシトシンは効果があるようです。

けれども、必ずしも「その人の苦しみ」を取り除くわけではない。
コミュニケーションは、表情が読み取れれば、感情が出せれば、安心できれば、完全にOKなのか?
よくわかりません。
自閉症者によくある感覚の特異性や常同行動(こだわり)などは、コミュニケーションの上で困難さを生みます。が、おそらくこれはオキシトシンの関係ない部分でしょう。けれども、自閉症においてはとても大きいです。

・自閉症の定義
・コミュニケーションの定義

があいまいなまま。
「自閉症にオキシトシンが効くかもしれない、「自閉症の治療薬」になるかもしれない」
というのはなんだかヘンです。

「オキシトシンはコミュニケーションの困難さ改善薬になるかもしれない、そして、それは自閉症の症状の一部を和らげる場合があるかもしれない」

と、こういうことでしょう。
「自閉症の治療薬」という言葉にすごく違和感があります。

「自閉症が治ったら、なんだか自分が変わってしまうようで怖い」という気持ちが抵抗を生んでいる部分もありますが・・・
表現として、誤解のある言い回しが横行しているし、実際に誤解している人がたくさんいるような気がして、気持ちが悪いです。

※研究はどんどんしてほしいと思います!

回復の過程だと信じたい

ここ数日、思い出し怒り(フラッシュバック?)がひどくて、とてもつかれています。頭がシャカシャカ、からだがボワボワ。

最初の職場(学校)でのセクハラ・パワハラ・いじめ。
そんな記憶が不意にリアルに出てきてしまって、そのたびに苦しみます。

学校に怒鳴り込んで、全部メチャクチャにしたくなります。

わたしは嫌なこと、悔しかったこと、つらかったこと、理不尽だと思ったこと、なんていう記憶をあまり忘れられません。
今でもいっぱい思い出しては怒ってしまいます。その当時と同じように。
鮮明なままなのです。

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以前にも記述を少ししましたが、私が最初にいた職場は学校です。
当時は自分に特性があるということはわかっていても、それが障害、自閉症だとはわかっていません。(ただ、自分のことはわりとわかっていて、特性に対する対策というのは自然に身に着けていたふしがありますし、小さな頃から、発達障害等の知識ももっていました。これは幸運なことでしょう。)

その学校は、校長教頭がどぎついセクハラをし、しかし、それが当たり前になってしまってあきらめられており。わりとそういう「プライベートへの踏み込み」にとっても鈍感。善意の押し売りが得意。
学級経営に「キャラ」を使って、「いじられキャラ」を嫌がっている生徒がいるのをわかっていても「あいつはそういう奴だからな〜」で済ませ、しかも授業でそれを利用するように学級経営する教師。恐怖で支配して勉強させることで「人を選んで態度を決める」ことを学習させ、「学ぶよろこび」を捨てさせてしまう教師。それを自分の「力量」だと勘違いしているし、周りもそう思っている。
発達が偏っていそうな教員に対して、「障害」「障害」を悪口を言って。「やる気が無い」と匙を投げる。同期の私が尻拭い。口約束はできなくても、ふせんにメモを書いて、貼っておけばできる人でした。「障害」「自閉症」などどさんざん、本人の前でも悪態をつきながら、そんなこともできないし、工夫しない。もちろん教員は同僚の療育をする立場ではありませんが。通常業務すら回っていないような状態ですが。それでも。やっていいことと悪いことがあります。

彼らだって悪い人ではない。
色んな人がいる。
いいところも一杯あるし、私が悪いのだ。

ってそう思うようにしていました。

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その職場をやめて1ヶ月ほどは泣きわめくパニックがずっと続いて。それからは、職場のことは思い出せませんでした。思い出そうとしても「ぼんやりと良い職場だった」「なのに何で私はできなかったんだろう」ということしかわからなかった。

最近になって、こうやってものすごい怒り発作が起きるようになりました。
死ね!死ね!って、それだけは、思わないように。
今更どうしようもない、証拠もない、あの教員達の信者も(信者がいるのが既に気持ちが悪いマインドコントロールの成果だと思いますがね)いっぱいいます。
私がこんなふうに苦しむ意味は、ない。

そう思います。
でも、忘れられないのです。

保育園に通っていた頃の疑問。小学生のときにあった理不尽なこと。
全て覚えています。

きっと私は完全に忘れることはできない。
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でもわたしは、もう自分を許してあげよう、と思いました。

私は彼らが「嫌い」です。
彼らが間違っているかどうかは、しりません。

そういう関わりは、持たないように、そこは努力をする。

けれども、私が悪いと無理に思って、彼らを好きになる必要はないのです。

実際は、人権を踏みにじる「間違った」人間だと思っていますが。
けれども。

でも、まあそれも「心の動き」としては認める。
私の心を許してあげたい。

また、「思い出すようになった」ことは良いことである可能性もあります。
トラウマ的なものなのか、特性上の問題なのか・・・そおのあたりは、混ざっているところなので、良いこととも良いきれませんが。
「無意識に抑圧してしまう記憶」から「思い出せる記憶」になったのは、きちんと怒れるようになったのは良いことなのです。たとえその場では怒れなくても。

だからこれは回復の過程だと信じたいです。

ああ、それでも、本当に、つらい!
この辛さが引き金になったのか、ひどい悪夢で疲れきって目覚めた朝でした。



2015年11月21日土曜日

カウンセリング12

12回めのカウンセリングは、これまでの振り返りをしました。

カウンセリングは往々にして「来て、日常のことを話す場」になりがちなのだそうです。
それは、私の担当してもらっている心理士さんのとる立場とはそぐわない。
また、私もそういったことがとても苦手です。

そこで、10回をこえたところで一度振り返りをして、新たに方針をつけましょう、ということでした。
スライドを使って説明があり、一度に多くの情報でも視ることに強い私は、理解ができました。割りと互いに「見せて示す」タイプの会話であるため、やりやすいです。

心理士さんは「認知行動療法」

以前に、私が推測していたように、心理士さんは、カウンセリングの中でも「認知行動療法」を行う臨床家です。
「受容的態度」のようないわゆる「カウンセリング」っぽい行動は「手段」であって目的ではなく(これが目的だと私は困ってしまいますので、良かった)。その人の状態を良くするお手伝いをするよ、という立場をとります。これについては基本的にどの心理士さんでもそうかと思いますが、受容することが目的ではない、という点がちょっと強調して言えることでしょう。だからといってガンガン議論したり、叱られたりするわけではないですが。
認知行動療法というのは、「その人の病気や症状・障害は、その人と環境との相互作用である」という立場でカウンセリングを行うことが基本にあるそうです。
ですから、環境や人(本人を含む)を調整してゆくことで、生きやすくしましょう、という方法を取ります。

私は「当事者」

また、私の担当の心理士さんはどうやら研究者としても活動しているのかな?と思われます。
彼は現在は違いますが、発達障害も専門に研究していたことがあります。
しかし、それはあくまで「研究」です。
「それがどういうことなのか」「この障害はなんなのか」といったことを整理することには長けていますが、「じゃあ、どうしたらいいの?」といった部分に関しては、得意ではないそうです。
むしろ、今までのカウンセリングで、私のほうがそういった知識は多く、研究もしているとのこと。

そういうわけで、「定義の知識」「行動の知識」の凸凹がお互いにうまく噛み合ったような形になりました。

私の障害

これは一応既に診断書が出ていたものですが、振り返りということもあり、また、10回のやりとりで、改めてはっきりと告知がありました。

私は、
自閉スペクトラム症/ASD
(高機能広汎性発達障害/HF-PDD、自閉症等とほぼ同義)
です。

それまでは、迷っていた節もあるようです。
発達障害を念頭に置きながらも、主治医の先生と心理士さん、それぞれと話す中で、状態を見ていて下さったのでしょう。やはり「はっきりとした確定診断」にはそれなりに時間がかかるのでしょう。
すなわち今までは、私が「はっきりしていたほうが安定する」こともあって「とりあえず、発達障害としての治療を行う=ゆえに、診断名は発達障害」であったということです。
それが、今回、はっきり「あなたは発達障害で、その中でも自閉スペクトラム症です」と「治療のため」ではなく「純粋に私の状態として」診断が確定した、ということでしょう。
図としては、変わらず「典型的」な位置に。

現在までのまとめ

これまでのカウンセリングで話したことのまとめ及び、心理士さんの推測・展望を示してもらえました。

お団子モデルの話=枠組みがあると安定する
…枠組みを適宜利用する。
・断ることが苦手、衝撃を受けてしまう
…練習が必要
→それ以降進展なしなので、今後の課題。
・水や空気はきれいと感じる
…(心理士)対人関係が複雑で不確定ゆえにそう感じる?との推測
…(私)それもあるかもしれないが、他にも有る気がする。と回答。はっきりわかるものや循環するものにひかれるなあとは思います。人間関係にかぎらず世界全般が不確定で不安ゆえに起こりやすいのかもしれません。あとは好みの問題。きれいと感じる・惹かれる分には問題はありませんが、面白いテーマや核が有るかもしれないので、考えてもよさそうです。
・据わりの悪さ
…(心理士)哲学的ゾンビの世界から、他者の存在する世界への移行が急激で恐ろしかったため?と推測。また、自分の定位が弱い可能性があるとのこと。ゆえに他者とのやりとりに困難があるのかもしれないそうです。
・身体感覚・感覚統合の問題
…皮膚の下に収まった自分のおさまりが悪い
・知的能力
…知的には高い。すなわち大きなコップをどう使うか。(また、そもそもそのコップで勝負するのか?)
・感情を感じにくい?
…(心理士)以前そのように指摘したが、そうではなく、感情そのものは嵐のように感じており、しかしそのラベリングが困難なのではないか。対処のしようは有りそう。

現在の状態

・以前不安定の原因の1つだった「仕事」に、就職できた。
…努力ができた。ジョブコーチさんが優秀なようなので、頼りながらいきましょう、とのこと。
・病院では基本的には落ち着いている
…きっかけがあって混乱することはあるが、基本的には落ち着いており、また立ち直りも速い。枠組みがしっかり(仕事)してきたこともあるか。とのこと。
・問題の共有ができはじめた

これから目指すこと

・感情的に落ち着く
…ラベリングするために、感情に関する言葉を覚えていきましょう
・生活と医療のバランス

人により生活に医療が介入するバランスは様々ですが、上記の図のように示すことができます。左に行くほど医療的緊急度が高く、生活を充実…とかなりふりかまってられない状態=①です。入院治療などが必要な場合、とにかく生きろ!と言う状態になっていきます。「急性期」というそうです。一番右=③なら、医療がほとんど必要ない、定期的な通院などを必要としないような場合です。
私は今、週に一度病院に通っていますが、生活の負担を考えると、月に一度くらいまでにできて、状態が安定するといいね、というのが理想とのこと。図の②くらいの状態をめざします。常に、ある程度医療とはつながっていた方が良いということで、③は目指しません。
・当事者研究を続ける
…これは順調とのこと。自分のために続けます。

今回は以上で、途切れていた生活記録表を再開しました。感情を知るためかな?
また、次回、安定した状態で迎えたいものです。



2015年11月18日水曜日

座るためのグッズと日々

内転筋を鍛えるという器具を手に入れました。
近所のホームセンタで、800円ほど。




こんなのです。
腿に挟んで使います。

ダイエット器具なのですが、私が買った目的は「座りやすいから」です。
以前にも「座る」ことに関する記事はいくつか書いています(いちばんまとまっているのがこちら→プチ当事者会とSNS)。
いろいろ工夫はしているのですが、限界はあります。
でも、少しでも座りやすく、また体幹がしっかりするようにすることは悪いことではないはず。

私は、どうも足に何か挟んだり、足を組んだり、何か踏み台に足を置いたり絡めたり、といった動作をした方が安定して座っていられます。
ゆえに、姿勢が悪くなることもあるのですが…。

当事者間でも話題で、心理士さんにも勧められている「スタイル」については、年始以降くらいには検討しようと思っていますが、今は値段と自分の持っているグッズとの兼ね合いで保留。


しかし、今回のグッズは値段が手頃で、今までに「良い」と言われてきたものではフォローできなかった「足に何か負荷がほしい」という部分についてうまくいく可能性があったので、購入しました。試しにお店で使ったときに、とても気持ちよく、なんだか姿勢も伸びたように感じた(おそらく太もも→下腹に力がはいるため)ことも大きいです。足がきれいになるかもしれないという邪念もあります。

早速使ってみています。
長く挟んでいると結構キツイ!でもしっかり座れて、ズルズルと椅子からおしりが落ちていかずに、心地良いです。
常に使うサポートグッズではなさそうですが、使ってみようと思います。

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最近の作品たち。

アイデアの流星群を表現するのになんとなく夢中になって、
そうしてできた流星群です。

スクラッチを組み合わせて、絵本っぽいイラスト。
雲みたいなのは「ムーム」です。
スーパームーンの日に、私がタイプミスして、なんとなく生まれた子です。
みんなを照らしてくれます。
Twitterで仲良くさせてもらっている如月さんと、お話もつくりました。
彼女の切り絵ムームがかわいい!こちら→カレイドスコープ


庭の苔。自然の幾何学模様をふと発見し、なんだか鮮烈!はっとしました。
雨の日で、きらきらひかって、よりきれいだった。




2015年11月16日月曜日

カウンセリング10/11

カウンセリングが前回の記事から2回ありました。

10
10回目のカウンセリングではブログの記事を見せました。
「なるほど」としきりに感心され、「これだけ書けるのはすごい」「発達障害の支援をメインにやっていたことがあるのだが、そういうときにほしい情報がこんなにも、無料でネットに転がっているなんて、すごいことだ」「これ、本当に無料で公開しているの?」と言われました。書けるものはかけるし、私にとっては普通のことですが、どうやら役に立つみたいです。
そして、こうやって書ける人は「問題解決がしやすい」そう。
確かにそうだな、と思いつつも、私にとっては「頭の中のごく一部の言語化出来る範囲」である、こともあるので、「うーん」という感じです。

また、仕事に関しては、仕事をしている方がわたしは落ち着いているみたいです。少なくとも、そう見えるらしい。わたしとしても、そうだな、と思います。
おそらく「枠組み」があることが安心につながるのでは、とのことで、上記の「書き記す」ことも、その「枠組み」をつくることに繋がるため、書いていたほうが落ち着くのではないかとのこと。

10回めは、落ち着いているね、という確認のような感じでした。

ただ、「枠組み」については、「確実な枠組み」というものは存在しないのに、枠組みに依存してしまうのは危ういことであるため、「自分で作れる枠組み」であるところの「文章を書く」「ものを作る」ことはある程度続ける必要がありそうだと思います。
また、枠組みが有ることの安心が、枠組みによるストレスを上回って、優先してしまって、ストレスをためることにも繋がるため、ここは診察やジョブコーチ支援を利用して、モニターしてもらうように、お願いしようと思います。これについては、ジョブコーチさんにはお願い済みで、定期的にセンターに通うことになりそうです。

11
11回めは、パートナという枠組みの喪失で、「死にたい」と暴れるだけの回。
けれども、それはそれで、「死にたい」を出せる所がカウンセリングしかないので、役に立ったようで、その後、少し病院で頓服を出してもらって休憩したところ、少し落ち着きました。
死なない約束ができないと入院ですよ、をチラつかされてしまいました…。約束…。苦しいです。ふっといなくなってしまいたい欲求は常にベースに流れているので、それが暴れてメインの音楽にならないように、という努力が関の山。

「ブログを書きなさい」「絵をかきなさい」と、主治医。
枠組みを自分である程度作って、自分を保たねばなりません。
足りない分は常同行動や独り言、ないしは仕事など少し危うい枠組みで補って。
そうして診察などのサポートもいただいて。
できるだけ自分の足で。

今回の記録は以上

2015年11月12日木曜日

無題


https://www.1101.com/essay/2010-02-03.html … https://www.1101.com/essay/2010-03-17.html … http://www.1101.com/essay/2015-10-14.html … http://decinormal.com/2015/10/13/suicide_adult/ …


あと少し、あと少し、神様が与えてくださったこの体という乗り物を


今日だけで何回心の中で自分を傷つけることになるだろうか、
今日だけでそれと同じだけ世界の、ひとの、いきもののとおとさとうつくしさと、それを感じる自分を知るだろうか


もうダメだと思う、ベランダから見える畑にいる、鷺がピタリと動かず止まっている姿に、こんな美しいところを汚すことはとても出来ないと どんなに苦しくても わたしは弱っちいからそんなことできないと


ーーーーーーーーーーー

大事な理解者がひとり私のもとからさりました。
パートナとして将来の話もしていた。

案外平気だと思ったのだけれど、そんなわけもなく、うつは悪化しています

ーーーーーーーーーーー

けれども世界が美しすぎて、そうして、迷惑を被るイキモノや人々にすぐに同化してしまうわたしは、どんなに自分を傷つける具体的な想像をしても、
なんど刃物を突き立てる寸前までいっても
なんどベランダに座ってみても

苦しいことに苦しいことに、どうしようもなく幸せになりたい。

もう、ダメだよ。もういい。もう充分だ。
って思う

それなのに、この体はまだ充分じゃないようで、もっと育ててあげなきゃならないようで、、
普通でも良い、普通じゃなくても良い。
ただ、この体が満ちたりるまではどうやらわたしはどうしようもない。
ぐずぐず、ひりひりして、のたうち回るしかないようです。

ああ、まったくなんてこった!

生きてることなんて、単なるエラーだし、単なるほんの少しの宇宙の、消えたってどうにでもなるちっちゃな細胞の中のほんのすこしだし、なんならガン細胞なのにさ

2015年11月6日金曜日

職場実習・私の受けた支援

さて、2週間の職場実習(インターンのようなものです。障がい者職業センターを介して行っています)が終了しました。

私が受けた支援は以下の様なものでした。

①短時間勤務(9時〜15時)のパートタイム労働から始め、しばらくそのようにすること(2週間も同様で、ずっと9〜15時という短時間)
②ジョブコーチ支援による相談支援

この2つが主な支援だったと思います。
基本的には②のジョブコーチ支援であって、①は相談次第なのですが。

①の短時間勤務がかなりいい影響になっていると感じています。

***

①短時間勤務がよい理由

私は精神的なもの、肉体的ものどちらの疲労も自覚しづらく、また易疲労があります。
不安や刺激などを多く受け取ってしまうため、疲れやすいのに、それを自覚できない。
そして、「大丈夫」かどうかの「基準がわからない」ので、よくわからないまま「大丈夫です」と言ってしまいます。そして、「大丈夫じゃなく」ても、うまく説明ができない。

また、特性への配慮があるとはいえ、今の社会では発達障害のある私が苦手なこと「音」「電話」「ある程度の対人関係」などは、「全て遮断する」ことはほぼ不可能です。

また休憩時間においても「完全に気を抜く」ことはまあ私には無理です。(ある程度会話を楽しんだり、ひとりになったりはできています)

よって、結局のところ「自分の部屋で全ての刺激を遮断する時間」をどれだけ取れるか、そして、「その時間で十分に回復できるように常に生活を整える」ことができるか、というところになってくると思います。
そのため、「短時間勤務」がやはり結局のところ向いているのだろうと思います。
お給料としては、少なくなりますが、まずは、ここを目指したです。

②ジョブコーチ支援でしてもらったこと

次に、ジョブコーチ支援が入ったことについて。
この2週間は、週に2回、ジョブコーチの方が職場に訪問し、数時間仕事の様子を見て声掛けしていただいたり、職場の上司を交えた面談をしていただきました。また、それよりも前に、顔合わせや打ち合わせをしています。そして、契約などに関わる複雑なやりとりもお手伝いしてくれます(これはセンターとも調整が必要だからかもしれませんが)。

私の場合、「仕事の内容」としては、もしかしたらフォローがあまりいらなかったかもしれません。
ただし、「仕事における精神面」では必須であったし、これからも必要だと考えています。

例えば…
「仕事は自分の決められた時間でやればいいのです。それ以外の時間は、休んでいることは、サボることではないのですよ」
「渋滞などで戸惑ったりしませんでしたか?」
「(上司に対して)飲み会はみなさん大体参加なのでしょうか」
「お酌の決まりなどは・・・?」
「電話は怖くありませんか?」
「人間関係はどうですか?」
「来る時間は今くらいがちょうどいいですか?もう5分遅いほうがいいとかありますか?」

など、「ささいな(したがって言い難いし、職場も考えにくい)」でも、私にとっては「大きなネック」となりうることを、面談の場で、話題に出してくれました。
私は「どうですか」と聞かれてもすぐには何も具体的に思い浮かべたり、言葉にすることができにくいため、とても助かります。

こういうささいな「不安」「不確定」が脳を圧迫していくので、細かく細かく解決出来ると、かなり負荷が違います。

そしてもう1つ。
これは自分で相談した(ただし、面談を設けてもらえたからからですので、これも支援のおかげと言えるでしょう)ことですが、「顔と名前の一致」が不安、ということについて。
こんなものを頂きました!


職場側から、「写真付きの名刺(私の部署だけですがこれがあります)全員分あげるよ、席順にファイルしてデスクマットに置いたらいいんじゃないかな?」
と提案していただき。

私が家でラミネートしました。

小学校や特別支援学校では結構メジャーな支援、「写真付きお名前カード」の大人版、といったところでしょうか。
とっても嬉しくて、気に入っています。
かなり、名前を覚えることができました。

また、名刺なので、外に出ている同僚に連絡を取りたいときには、そこにある携帯番号に電話するのにも役立ちます。電話対応で職場の電話番号や住所を聞かれても、読み上げられます。おまけ的な部分ですが、これも結構、助かります。

写真付き名刺は特殊なものですが、「顔を覚えたいので写真を撮らせてほしい」と言ってみたり、あるいは特性を明かしたら、大人ならばOKしてもらえるかもしれません。そうしたら、自分で名前付き、役職など必要な情報付きに加工して使ってみるのも、手かもしれません。

また、事前に「視覚優位」などの話や「発達障害」「私の特性」については上司と、引き継ぎ対応の方にのみ話があり、そのためか、仕事の説明時には、かなりたくさんのスクリーンショットを撮って、ファイルしたものを作っていただいたりしました。他にも私の気がつかないところで、たくさんの配慮を頂いていると思います。
上司と役員、引き継ぎの方以外はカムアウトしていませんが、今のところは問題ありません。これからどうなるか、私の場合「第一印象は結構良い」ところがあるので、わかりませんが、みなさん良くしてくれました。苦手な電話をしていたら、近くの人が聞いていて、後でフォローしてくれたり…。とてもありがたいです。
***

いまのところ、私が受けた支援は以上のようなものです。
今後、また打ち合わせ等を経て、雇用に至るかが決まってゆきます。

おのおのの経験や二次障害の状態、性格・特性によって、支援はオーダーメイドになると思いますが、1人ひとり、合った支援を得て行けると良いと思います。

2015年11月1日日曜日

カウンセリング9B  Twitterより2つ

さて前回の続きです。

外見と中身の乖離2−Twitterより


前前回の記事につけていたログメモです。

これを見て心理士さんが2つのことを指摘してくれました。

・Twitterでつぶやくことがあなたには相性が良いのだろう
・WAISや学歴と困り感との差があり、「できるんだよ、でもさあ」感が強く、うまくそれを周りとチューニングできなくてしんどいのではないか(つぶやきの内容より)

ということです。

Twitterとの相性の良さ−私のフラッシュアイデア

まず前者ですが、まさにそうだと思います。
Twitterは私にとってアイデアを微妙に受けつつも自分の思考をそのままバンバン記録して忘れないように外部化するのに一番「フラッシュアイデアを早くたくさん記録できる」手っ取り早くすぐれたツールになっています。
そこからブログになるまで考えが増えたり深まったりすることも多いです。

私の頭の中は足の踏み場もないほど散らかっており、思いつきや入ってきた情報(例のごとくラベリングが苦手でかさばる)が散乱しています。
川の流れ、流星群、樹形図、オーケストラ…そんな感じに、ときに独立に、ときに影響し合いながらそこらに飛び交っています。

しかし、それは「流れ星」「フラッシュ」であり、すぐに消えてしまって「あっ」と思ってもしっぽをつかむのは大変です。

口は1つしかないし、声はすぐに消えてしまいます。また聴覚はあまり優位でなく、言葉の表現をしないといけない分、処理が遅く、またラベリングすることで劣化します。

メモは絵を描くことができ、自由度が高いです。速度以外の面で非常にすぐれています。

そして、「量を記憶する」ことに一番優れているのがTwitterです。

ゆえに私は主にTwitterとメモ帳・そして時々音声や別のメモ等のツールを使って、フラッシュを記憶します。忘れてしまうのは少し怖いような、だめなことのような気がします。「理解したい」「表したい」「記録して手元に置き、参照できるようにしたい」欲求が強いです。本を「買いたい」(借りるのではなく)と思うのもこのためかもしれません。


フラッシュアイデアについて考えていたら出てきたイメージ。
流星群を全て捉えて記憶しよう、そして処理して吐き出して正しい名前をつけて箱に入れたい、という欲求。

結果と困り感の乖離

さて二つ目ですが、私はFIQや学歴を見る限り「大丈夫」な人です。
むしろ「優秀じゃん、なに甘えてるん」という感想を抱かれてもなにも驚きません。

けれども、「できてしまうけれど、でも・・・というところなのです。」
これは、前回の記事における「しんどさを感じにくく、事実や目的優先になりがちで、無理にやって、できてしまう」部分がからんでいます。

前回は上記についての「原因システム推測」をしました。

今回は、それが「どんな感じか」表現してみようと思います。

それは以前記事にした「キャパシティのコップ」で説明できます。


前の記事では主に感覚を受容する能力に関して、コップを使いました。
これはその他の能力に関しても使えます。

*****

Aさんは小さいけれど丈夫でスペアもあり、よく販売されているコップをもっています。水は水道水で、調整がセンサー式でらくらくです。
Bさんは大きいけれど割れやすくて、扱いにくく、あまり販売されていないコップを持っています。水は津波になって押し寄せてきたり、日照りでまったく来なかったり不安定です。

互いに相手のコップや水の出方は見えません。
見えるのは結果だけです。

コップに入る水が「能力・結果」です。

AさんはBさんがくんできた水をみて「Bさんすごい!よくできるんだな」と思います。
Bさんも「あれ?私ってちょっと水たくさん汲めるのかな」と思います。

でも、ずっと使っていると、Bさんはへとへとになるし、コップも水漏れしてきます。日照りだってあります。

そうすると、Aさんは「Bさんはあんなによくできるのに、なんでやらないんだ!さぼっている」と思います。Bさんも「自分はだめなやつだ」と思います。

ーーーーーーーーーーー

あるときBさんは「あなたはコップが多数派さんと違うのね。水もちがうのね。」と言われます。(診断)また、コップにはるテープ(薬)や、雨乞いの儀式、大きいコップを運ぶグッズなどの情報・グッズそのものを得られます。

ーーーーーーーーーーー

けれどAさんには「環境が違うという情報(発達障害の存在)」は理解できても「(実際にコップを取り替えて)しんどさを体験する」ことはできません。

そしてやっぱり
「コップが違う人は天才だ!」
「やりようによってはすごいことができる」
「でも見た目は普通だけどなあ」

なんていう見方も多いです。

*****

と、こんな感じでしょうか?
さて、こんなBさんです。

「つらいんだね」「かわいそう」「でもすごいね」などなど…
→「うん、そうなんだよ、でも〜」

こんなふうになっちゃうの、なんとなくわかりますか?

私はこんなイメージを「見た目と困り感の乖離」として説明しました。
実際にはその場でなので落書きと指差しぐらいでしたが。
次にはこの記事を持って行こうと思います。

慌てていたのでブログの痕跡が明らかだったらしく「この文章どこかに公開しているの?」とばれました。かまいませんが、なんとなく恥ずかしい!笑

診察は変わらず。いつものお薬がでました。
コーヒーを持って入ったことで「カフェイン中毒なんです」という話になり、「発達さんはコーヒー好きな人多いね、脳の働きが変わるみたいだね」「はい、覚醒します」なんてやりとりをしました。ちょっとおもしろかったので、次回はグミずっと噛んでいるのが好きなことでも言ってみようかな、おぼえていたら。と思います。




2015年10月31日土曜日

カウンセリング9A 自信があるように見えるのは

カウンセリングでした。

本当にメモリに余裕がなくて、この記事に「頭ぎゅーん」「不器用」とメモ(殴り書き)したものをとりあえず印刷して持っていくのが精一杯でした。

注目して話をしたのは2つです。

1つは新しい仕事はどうか、ということ。もう1つはTwitterについて。

新しい仕事について−外見と中身の乖離(高機能のしんどさ)

これは、「どうか」と聞かれてもよくわからなかったので、「よくわからない。職場で仕事をしているときに自分が目にする映像が流れるだけで、ただその事実がそんざいするだけで、どうということはわからない。」と、仕事の動きをしながら答えました。

「それは落ち込んでいる、自信を失っている、っていことじゃないかな」とのこと。
ピンと来ませんでした。
「感情を感じにくいんだね」と言われました。
ーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーーー

今思うこととしては、「感情を感じてはいるけれど、認識=意識の舞台に乗せ、言葉でラベリング=みなに分かるように一般的表現をすること、が難しい」のだろう、ということです。


イメージ図です。

脳が入力情報を処理し、適宜出力命令を出すおおもとです。
その中に、分類部隊やラベリング部隊がおります。
分類された情報達はそれぞれ

「短期記憶フォルダ?長期記憶フォルダ?」
「そのまま保存?圧縮する?」
「関連付けする?」
「どんな名前をつける?」

というような処理の部隊に回されます。

そのような処理をするわけですが、脳はこういったことを一時メモリを使って入ってくる情報を瞬時に処理しているので、全ての情報を平等に大事に処理しているわけではありません。

たとえば「毎日見ている風景」は、脳が「いつものだからクリックしなくていいっす。変わってるとこだけ見つけといて〜」となるわけです。ま、だからわりかし見落とすわけです。
こういうところに余計にメモリを掛けてしまう結果「いつもと違うと怒る」ということがあるかもしれません。また、ここにメモリをかけないようにするために「いつもと違うと怒る」可能性もあります。私は後者だと思っています(別回路を圧迫するのでパンクしやすくなる)。

そこで、おそらく通常はここの「圧縮」や「優先順つけ」が、社会生活を送るのに有利になるようにはたらくのでしょう。ある程度訓練はできれど、脳の機能ですから、それは無意識ですし、訓練で必ず思い通りになるなんてことはないと思います。
人間は群れで、感情のやり取りを通じて「群れとして」認め合う生き物ですから、「感情」や「同じ生き物情報」が優先的に処理されます。
それで残った「余分なメモリ」の余力を、別の部分に回します。
結果、「画像の記憶」なんかはたいてい圧縮されるのですね。
学校生活で言えば「友達の名前と顔」は全部そのまま飲み込み、長期記憶・すぐ出せるフォルダに、「勉強」が圧縮して「テストの時だけでいいっす」フォルダに(で、思い出せない)入れられるような感じです。

ところが、非定型発達の私は、おそらくこの仕組ではないのですね。
また、無意識に大きく影響するであろう「興味・関心」においても非定型。
ゆえに、「優先順位付け」や「圧縮」が多数派とずれてきます。
私は人間ですが、群れで生きる生き物ではないようです。また、「意味」「事実」「分析」といった事柄につよく惹かれ、安心する(※これは「記憶」の方法が関連している)傾向があるようです。

※この画像の記事参照のこと。

そのために、生きる上で大切な「感情や体調の理解」部分がとても苦手なのだろう。
事実やはっきりした映像の方がなぜだか優先度が高く、また「はっきりしていてわかりやすい」のです。そして圧縮率が(おそらく)低い。
その分、「人の顔と名前の一致」や「感情のラベリング」に使うメモリが圧迫されます。

また「ラベリング能力」そのものが全体にとても低い。
そのために「画像は画像のママ」認識するしかなかったり、「姿のない」感情、「基準のない」体調、といったものは非常に認識しづらく、意識の舞台にすら乗せられない。

そういう感じが、私の頭のなかで 起こっている ような気がします。

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上記を発見したのは「感情を感じにくい」ということからのフラッシュ思考です。
そして、そこからさらに発見したことが、タイトル

自信があるように見える
ベテランに見える
度胸がある(ように見える)

です。
なぜなら「なにかしないと」と思ったら、その完成図ははっきりわかるものです(完璧にすればするほど完成図に近いため、完璧主義の要因でもあったり)。けれども、それにともなう感情や体調はよくわからない。
ゆえに「とにかくやる」という事実=完成図を現実にするためにはたらきます。がむしゃらにはたらきます。


その結果が「働いているもりさんは鬼気迫る感じが怖い」「厳しい」「一年目には見えない安定感」「度胸がある」エトセトラ、エトセトラ…

という評価になります。

けれども実は「ラベリングされない、意識に上らない自信の無さや自己否定、しんどさ」はたまっていきます。
そして、閾値を超えた順に、体の一部やパニックとなってあらわれる。

うーん。どうしたものかなあ。
という感じです。

とはいえこれを書ききったことですこし落ち着きました。

長くなったので、二つ目の「Twitterについて」は別記事にします。

2015年10月28日水曜日

ねこかな?


ねこだ!間違いないぞ!と思ってお庭を探しまわったのですが、いませんでした。
でも影だけある…ゆうれい…?ねこの…?こわくない…昼間だしねこだし…でもよくわからない現象だな〜と思って見回したら…


木でした。
「木のてっぺんに乗って座っているなんてなんてかっこいいねこなんだ!」と思っていたら「木のてっぺんの形が座っているねこのシルエット」でした。

とってもわくわくしました。
しかも、これは特定の時間にしかキレイなねこの形に、ならないのですね。
それに気がついて、すごくどきどきしました。

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さて、今日はお休みでした。

今週から採用をみこした職場体験をしています。

色々と思うことはあれどなかなか文章に起こせず…

でも、じりじりと進む。

きっと今までと違って民間企業への就職・事務系ということで、できると思っていたことが思わぬ苦手として新たに出てきたり、すると思います。
現にしています。

大体みんなの状態を把握して仕事をしたり、早口(これ、びっくりしたのですが、やはり教員・学校関係者というのはあるていどちょっとだめな人でも、「ゆっくりはっきり大きな声で、相手が黙っているときに話す」ものなのですね・・・やっぱりすごいんだな。しかも、外線は、業者の場合、学校側はたいていお客なのです。あんまり難しくないんです・・・)の電話を瞬時にどこからか見て、見ながら取り、取りながら名乗り、名乗りながら相手の名乗りを聞き取ってメモし、用件を聞き、取次などする。これらが同時に一瞬でできる人ばかりなのです。
うわーん。大丈夫かな〜。

しばらくはジョブコーチの方も入ってくれるし、障がい者雇用でもあるので、相談しつつ、どのように働くか、つくっていこうと思います。

金銭的に限界なので、とにかくこの職場には食らいつかないと、本当に厳しい〜!
正直、これがあるがゆえに、あんまり「自分に合う働き方」を悠長に選んでいられない。のです…。これ以上、親に関わること、頼ることも、私の特性・育ち双方の問題上とてもむずかしく、正直「できません」…。


ログメモ

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【プチ特性発揮メモ】

運動しようとプールに行ったのですが、更衣室の中に「化粧室」と書いた場所が2つありました。
私は「化粧室」だから、どちらかトイレで、どちらか化粧をする場所なんだな、と思って、その場で隠しながら着替えました。
すると、後からきたおばさま達、化粧室に入っていくではありませんか。

出てきたおばさま、変身完了。

「着替えルーム」って書いて〜〜〜〜〜〜!!

今日もアホちゃんやらかしました。

いいんだ、誰も迷惑かけてないから、いいんだ。
更衣室の中にさらに着替えルームがあるなんて…たしかに「プール利用の人」はそのほうがありがたいです。でも、わからないよ〜〜〜〜。

「常識がない・世間知らず(プールに行ったことは合ってもそういうところが見えていないのでしょうね)」「字義通り捉え(化粧室がトイレ、とか、知識さえアレばOKなんですよ。基本的にあまりこういうこと、やらかしません。またはやらかしても気がついていません。)」のコンボでした。

でも、初めての人はわからなくて不安なんじゃないかなぁ、やっぱり。
きちんと表記した方が、みんなにやさしいんじゃないかなぁ。
とも思いました。

ただプールの床は、感触がとても苦手な石のタイルでしたが、人が多く通るところはマットが敷いてあり、嬉しかったです。



2015年10月17日土曜日

家族とは/医療費助成/記録

私には家族がわからない。
家族だから、に続くあらゆる文章が理解できない。

家計を一にする他人なのである。


私に、情をもとめないで。
私をこじあけないで。
ほおっておいて。

家族の支えがなければ生活できないのに、そう思う自分が情けないけれど

とにかく一緒に暮らすことそのものが過干渉で、感覚過多・情報過多で。
ものすごく疲れる。

ともにくらすことそのものが私には暴力に近い。

そしてそれゆえに起こるパニックやイライラや泣き叫びによって家族も疲弊する。
そうすると本当の虐待が顔を出す。
数々の暴言と暴力を私は忘れることができない。

別の個体なのに家族だとなぜいろいろなことが一体化してしまう慣習なのだろう。
意味がわからない。

私は、少なくとも「普通の」意味では誰かの家族になることができない。
それが私の「普通」なのである。
私は自分が変であることを自覚しているが、全然納得はいかないのである。

定型の人々の過剰な干渉やコミュニケーションは、私にはとても不思議で、宇宙人で、えてして暴力だ。

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私の住む地域では障がい者手帳によって医療費助成が受けられることがわかった。
精神以外でもなにかと不調の多いからだをもつわたしには非常に助かる制度だ。
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ペインスケールを作った。
自分の調子を伝える、また自覚する手段になるように。
一般の人が普通にペインスケールを購入できるようにしてほしい。
このようなスライド式のペインスケールが欲しいのである。
http://www.esakimedical.co.jp/product/other/painskeil.html
http://www.grg.co.jp/%E5%8C%BB%E7%99%82%E9%96%A2%E4%BF%82%E3%82%A2%E3%82%A4%E3%83%86%E3%83%A0/%E3%83%9A%E3%82%A4%E3%83%B3%E3%82%B9%E3%82%B1%E3%83%BC%E3%83%AB/
http://makipain.web.fc2.com/sub10.html
スライド式が魅力的で、また痛み以外の、あいまいな物事を可視化して認識/伝達するのにも使いやすい以上の3種類のようなものがよいと思う。ただし、3000円は高すぎるので、プラスチックで構わない。気軽に手帳に挟めるもの・文房具感覚で持ち運べるものがよい。


【追記】「ふつうじゃないかたち」でなら家族になれると思います。よ。(パートナとは共に暮らすことができる)

2015年10月16日金曜日

カウンセリング8

カウンセリングでした。

引き続き「据わりの悪さ」に関して。
色覚異常の記事をみせました。

私は名前しか知りませんでしたがこの感覚が「ドナ・ウィリアムズさん」(『自閉症だった私へ』の著者)に似ているように、心理士の先生は感じたそうです。
海外の自閉症者の著書をあまり読んでいないので、これを機に読もうと、図書館に行きましたが、なかったのでほかのものを借りました。
ここのところ自閉症関係の本をほとんど読んでいなかった(あるある〜、と共感するが、結局それ以上のものが見いだせないため)ので、ちょっと興味が湧いて、とりあえずたくさん借りました。


TED「世界はあらゆる頭脳を必要としている」の動物学者テンプル・グランディンさんの本でさえ1冊も読んでいない私です。書痴のくせに、です。

そして、眠すぎること、身体中がチクチクと痛痒く、服を着るのもやっとのことを伝えると、疲労だと言われました。
休む方法を考え、「壁に挟まる」ことになりました。

そして、これ以上タスクを増やさないこと。できれば減らすこと。

とっても難しい。

けれどもこれいじょう抱えきれません。

職業センターでも限界突破して泣き出しそうになりながら打ち合わせをする日々です。
きっとそうは全く見えないみたいなのですが。

それでも記録することをやめられない。ので、

支離滅裂なのですがのせています。
疲労しているのですがそれにうまく気が付けない。

刺激を遮断すれば、少し自覚できるが、すぐに刺激を求めてしまう。
相反する欲求。

頭が痛い。

そうこうするうちに手帳も届きました。
一仕事終えてひとつ「曖昧なまま頭にとどめておくしかなかったこと」が完全に外部化され、また障害者雇用のほうもこれで正式にOKとなり、すこしほっとしました。
障がい者になった、ということはとくになにも思いませんでした。なにも変わっていません。
これから遅れて気持ちがついてくるかもしれませんが、今はここまで。

笑えることには、心理士さんから、体幹の問題にて「スタイル」を進められました。
わたしの据わりが悪い、という感覚には精神的なめんにプラスして身体感覚のエラーもあるだろうとのこと。






2015年10月7日水曜日

カウンセリング7 据わりが悪い

カウンセリングでした。

据わりが悪い、居心地が悪い、という昔からある感覚はいったい何なのか。
少しずつほぐしていきました。

先生は、「なんとなくわかってきた」そうですが、
私は、「全然わかりません」。

ので、何を記録していいのかもよくわかりません。

とにかく、からだがあることが不便でしかたがない。
完全な空気、きれいな存在になりたい。
脳と体との乖離。
http://morikanoko.blogspot.jp/2015/07/blog-post_29.html
以前書いたこの記事をふと思い出します。

私は言語に問題はないので、わかりやすく話せているのかもしれません。

けれど、本当に表現したいことはそれよりももっと違う言葉でしか表せない、おいてきぼりの部分がある。そして、言語能力とその他の能力の差が大きすぎる。
精神的な幼さ。いつも癇癪が爆発しそうで、とにかくそわそわ。

今日は特にひどくてずっと何かを食べているか(口の中に刺激があるとしゃっきりする感じがします)、痛いほどに手をぐにゃぐにゃと曲げて刺激しているか、無意味に動きまわっていないと、意識が保てない。

それはじぶんにしかわからない。
じぶんでさえもわからない。

不思議です。

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診察は、仕事関係のことと、最近体のちからが抜けやすいこと、自己刺激的に食べ続けてしまうことを話して終了。処置しようがないので、処方はかわらずです。

私にとっては複数のことを処理している状態にあるので、先生はひたすら「少しづつね」「大丈夫」という言葉をかけてくださいました。


2015年10月2日金曜日

カウンセリング6  − ASD者の記憶・認知特性とB項目

カウンセリングに行ってきました。
前回混乱していたことを受けて、今回は特に準備がありません。
少し間が空きましたが、その間に考えたことや聞きたくなったことをメモして見せました。混乱した気分の他に、主に質問としては

「新DSMで、私の診断名はどうなるのか」

ということでした。

診断名にとらわれることに意味はないとわかっていても、「紙に書くことが出来る診断」というのは私のなかで「証拠」のような位置づけになっているようで、ばかばかしいのがわかっているのに不安定になります。

新DSM関連のページいくつか

http://synodos.jp/society/4414
http://www.e-satoh.com/DSM-V.html
http://ir.lib.sugiyama-u.ac.jp/dspace/bitstream/123456789/828/1/%E5%AE%AE%E5%B7%9D%E5%85%85%E5%8F%B8.pdf

これまで、「広汎性発達障害」(自閉症スペクトラム)の診断は、「コミュニケーションの障害」または「常同性」のどちらかがある、ことで診断がなされてきました。(ただし、これまでの診断基準というのは非常にあいまいで「イメージ」に基づいた診断をしてしまっているなどの問題も指摘されています)ところが、今回からは「コミュニケーションの障害」および「常同性」の両方 による診断がされることになりました。

そして、私の診断書には「常同性」にチェックがありませんでした。

そうして私はまた「あれ・・・?今まで自分が自閉症スペクトラムだと思ってしてきた工夫は何だったの・・・?」「ただのずるだったのかな、ちゃんと普通に頑張る必要があるのかもしれない、やろうと思えば出来るのかもしれない」の思考に飲み込まれて行きました。
いつもは、「障害があろうとなかろうと、楽になるように補ってすごせばいい」なんて書いている私ですが、それはいちばん、自分にいいきかせなくてはいけないことなのです。とっても苦手です。

ただ、Twitterでこの不安感を訴えたところ、どうやら「常同性」の下位項目が変わっているようでした。
そして、新DSMのくわしい解説ページを教えていただき、自己判断で「どうやら私は診断名は変わらないようだ」と思いました。

念のため(というより、自分で思ったことを信用出来ない私は)、それでもカウンセリングで確認してみたというわけです。

新しいDSMの日本語版を見せてもらいました。
「常同性」の項目について、「すべての下位項目に関する、共通した、根底にあるものは何か」ということを、説明してもらいました。

それは、どうやら「記憶や認識が頭の中でどう存在するか」という点であるという考え方があるそうです。

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いわゆる定型発達の人というのは、記憶や認識が順番に「積み上がっていきます」。その影響の受け方が一定です。

ところが、自閉症スペクトラムの人は、それがバラバラな傾向があるのだそうです。そのため、タイムスリップが起こったりする。そして、「ずっと一定に続いている、積み上がっている」ものがないゆえに、とても足場が不安定です(平気な人もいます)。(これ、あおさんの、「記憶は水に浮かぶ島のよう」という喩えと、ぴったり一致しますね。)

ゆえに、「エコラリア」や「常同行動」をすることで、「変わらないもの」をつくりだす。そうして安定をする、というひとつの方法。そして、ほんのわずかの「変化しないはずのもの」に頼って生きているがゆえに、それがかわることに非常に敏感である。(感覚過敏は微妙にずれますが)それがこのB項目の「常同性」ということなのだそうです。

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これは諸説あるうちの1つだと思いますし、カウンセラーさん自身も「僕もよくわかってはいない」と言いつつ、苦労しながら説明してくださったことです。
そして、それをさらに私のフィルターを通して書いたものですので、完璧なものではありません。

しかし、たしかにこういうふしはあるなぁと思いました。

そして、やはり私はこういう診断の部分に、苦しいにも関わらず、ばかばかしいとわかっているのにこだわってしまう(もしかして、これもB項目のひとつでは、と思います)。
そういう部分が大きいので、これからは、問題解決型ではなく、少しどういう方向か決めずに、「私はどういう位置づけなのか?」という足場を安定させるためのカウンセリングになるそうです。

なんだか不毛な気もしますが、私に必要なことだとも思います。
じりじりとしか進みませんが、また次回、どんなお話になるか、楽しみです。



2015年9月28日月曜日

ちゃんりおメーカーと顔の判別

ちゃんりおメーカー」をご存知でしょうか。
手軽にサンリオ(キティちゃんなど)キャラクターのようなキャラクターを自分に似せて作ることが出来るWebサイトで、最近よくやっている人を見かけます。
アイコンなどにしているようです。

さてこのちゃんりおメーカーは、はじめから福笑いや着せ替え人形のように顔を作ることも出来ますが、写真を取り込んで、顔をつくることも可能です。

そこで、色々な表情の私写真を取り込んでやってみた結果が以下の様なものです。





半分ぐらい「あなたは男の子ですか?」と聞かれました。つらい。

それにしてもなんてバラエティ豊かなキャラクターが作られたことでしょう。

もう一度書きますが、「これは全て私の写真を取り込んだもの」です。

それを思うにつけ、人の顔というのは、表情1つでいかようにも印象が変わる。そして、光の当たり方などでも、顔色など、別人のようになってしまう、ということを改めて思います。


【ヌード 閲覧注意】表情と姿勢だけで“結果にコミット”しちゃうシカゴ在住のフォトグラファーの作品

こんな写真もちょっと話題ですね。
全身に関しても同じく、同じ人でも環境や姿勢によってまったく別人のようになってしまうのです。

それを、人間(定型発達者)は、「どんな環境でも、どんな表情でも、ある程度同じ人を区別し、表情が変わっても誰か分かる・顔と名前をほぼ一致させて素早く覚えることが出来る」のですから、なんという能力だろう、と思います。もちろんこれが苦手な定型さんもいますが。

一方、発達障害のある人は、相貌失認があったり、そうでなくとも「人の顔を覚えるのが苦手」だったりします。

私も相貌失認とまではいきませんが、人の顔と名前を覚えるのが非常に苦手で、いつも苦労しています。誤魔化し誤魔化し、誤魔化しきれずにお互いに気まずい思いをしてしまったり、相手をがっかりさせてしまったり、悲しいです。

人の顔を覚えるには、

人の顔を他のものを区別し、特別に注視し、そこから「ひとつの人間として」表情などが変わってもある程度わかるように認識をまとめ上げる

必要があります。
これは、私にとって、発達障害のある人にとって、とてもむずかしいことだろうと思います。

まず、人に対する興味の薄さ。
人の顔をそんなに興味をもって見ることが出来ず、色々な面白いことに興味が散ってしまいます。
さらに、人の顔はよく変わる。
先ほども書いたことですが…。表情、シワが常にグニャグニャと動いています。
これは私にとって恐怖でもあり、表情が豊かすぎるディズニーキャラクターなどは、怖いと思ってしまいます。かわいくもあるのだけれど、囲まれたら怖い。比較的表情がない、動物などをより好みます。(※私の場合)
このよく変わる人間の表情を「1つの総体」としてまとめ上げる、また「別の人間」と区別することは難しいのです。

そんなところで、これが簡単にできるシステムが備わっている定型発達の人というのは、とてもすごいなあと思います。


人の顔が覚えられないのは、悪気があるわけではありません。
職場などでは、名札や席表があると、少し安心します。
気を悪くしてしまうかもしれませんが、すこしだけ、「こういう人もいるのだ」と思ってくだされば嬉しいです。
覚えられないのは、本当に、悪意があるわけではなく、どうしても、わからないからなのです…。

どこかで『人間もねこみたいに模様やしっぽで区別出来たらいいのに』というつぶやきを見たのですが、まさに。至言です。


2015年9月27日日曜日

過敏と鈍麻、過敏で鈍麻


最近いそがしく、過敏が悪化しています。

すぐに頭が痛くなる。パソコンの画面がまぶしい。
いつもは大丈夫な、紙のこすれる音や、イスと地面が擦れる音がつらい。

そして、それに気がつかない鈍麻と、気がついてもやめられない、刺激を求めてしまう部分。

あまりにそんな日々だったため、電気を全て消し、毛布をかぶり、無音にし、強制的に刺激を遮断して数時間休みました。

すると、一時的に「耳が痛く」「目が痛く」「全身のこわばりを感じる」ようになりました。

それまで「うるさい」「脳に刺さる」「頭がいたい」とは感じても、「耳が」「目が」原因だとはっきり理解できるような感じではなく、音を軽減するグッズを使って「楽になる」ことで「おそらく音が原因だろう」と推測したり、苦手な音にひどく反応することで、「おそらく色々な音を感じ過ぎているのだろう」と思っていました。
また、それによる体の緊張というのも、あまり具体的に感じることはできず、ただ「なんとなくつらい」とばく然と思っていました。
そして、ヒステリー球などの心身症に発展することも。

それを、刺激を遮断することで感じることができるのだとわかりました。

やはり意識していない部分でいろんな感覚が情報に溺れているのだなぁと思いました。私の感覚鈍麻や、セルフ・モニタリングの弱さの一端を担っているようです。

最低一週間に一度くらいは、こうやって感覚をすべて休める時を作りたいと思います。できるかなぁ。動きまわってしまう私には課題です。

こういうことを発見するにつけ、自分のを感じます。
現在お仕事を外でできるように動いていることもあり、「ああ、私は凸凹があるのだな」「でも、それが周囲にも自分にもとてもわかりづらいのだな」ということを知ってゆく過程にあります。
とても普通に見える。けれど、使っている労力は大きく、また、時に当たり前のことが全くできないことがある。
とてもわかりにくいです。自分すらうまくわかっていないのですから。

けれども、やはりお仕事をするにあたって、私には少しサポートが必要だ、と今、感じています。





自然の中の音は、開けた場所で聞くからなのか、耳がすずしくひらいてゆくような感覚。
平気なものが多い気はします。
時々、耳を休めるために、あえて「音が響かない(反響しない)」外へ散歩にでることもあります。




2015年9月25日金曜日

みんなで



みんなでみんなでしあわせになろうね。


ASD者はコミュニケーションに「問題がある」?

そうかもしれません。

わたしは、インターネットの、ASDのひとたちにたくさんお話を聞いてもらって

コミュニケーションして、

助けられてます。

ちょっとふつうの道をまっすぐ進むのができないんだね
定型さんにははっきりきれいに、道路が見えて、車でスイスイっといける道が、
なんだかジャングルみたいに見える。

でもみんなで踏み台つかったり、手をひっぱったり、
寄り道して休憩して
やまのぼりしてるんだね〜

やまのぼりが趣味の人は、うらやましいなと思う人もいるみたいね。

時々、いや、結構、車乗りたいなぁと思うけど、
結構楽しいとも思う。

いろんな道が見えちゃって
色んなおとが聞こえてきて

なかなかまっすぐ進めないけどね。

楽しいといえば楽しい。

ちょっと、車社会だから、苦労はするけどなあ

定型さんも非定型さんもみんなで幸せになろうね〜。


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珍しくゆるっとした記事なのでした。





2015年9月23日水曜日

改めて、気分表。



https://drive.google.com/folderview?id=0B-K5Z5ThY31RfjlTdVhJdnRfamdQSldHcE1hQzhvUll6eFpJN21VVVZqdmtMQmN0MzFiSnM&usp=sharing

以前から気分表は使っていますが、それをGoogleDriveで共有したのでリンクを貼ります。

二種類あります。

①気分の波がわかりやすいもの(原案:如月行さん)
②行動と気分との関係がわかりやすいもの

それぞれご自分の需要に合わせて選んでください。
また、これをもとに自分流にアレンジしてもいいと思います(②がPDFで申し訳ありませんが)。

気分障害の波や体調の波を把握したい場合(気分と体調の2つのグラフを書くといかもしれません)・セルフモニタリングの練習・ストレスが出る行動の把握などに使えるかな、と思います。

私はセルフモニタリングがとても悪い(痛みや不快感に対する強度の感覚鈍麻)なので、②を、心理士さんの指導で現在使用しています。正直、うまくモニタリングできているとはいえない気もしますが…。それでもやる意味はあるんだろうなぁと思います。
医師や心理士への疎通もやりやすくなるでしょう。

私の場合、通院時はこれに加えて、B5ノートに聞きたいことや伝えたいことを書いて見せています。

そこから、ブログに起こしている内容もたくさんあります。

お医者さんとの関係が良くなると、治療もスムーズになります。
お互いがわかりやすい方法で、できるだけ(完璧にはなりません)診察時間内に正しく情報が伝わるように、工夫が必要です。



2015年9月22日火曜日

断る責任、休む努力。

私はいま、そとでのお仕事は出来ませんので、家でできるお仕事を請け負っています。

インターネットを介して依頼を受けます。
何度か続けて依頼を受けることもあるのですが、そうすると、「やらなきゃ」が溜まっていき、調子が崩れてきます。

ある程度の努力で、少しづつ、出来るようになることは必要かもしれません。

けれども、「できません」を表明すること、お休みをもらうことも、責任であり、休むことは、長く働くための努力なのです。

「休む」ことを表明できない、言いなり、というのは、ある種責任を相手に委ねている行為でもあり、お互い「ラク」でもあります(その場では)。
「断る」「休む」ことは、お互いその場では「つらい」です。とてもエネルギーを使うのでダウンしてしまったりもします。
でも、それは長く生きてはたらくための責任である、ともいえます。

どちらが悪いという話ではありません。

断るってとても苦手です。(別記事参照)

私にとって「頼むこと」「断ること」およびその言葉自体というのは、「相手の領域に侵入すること」だと感じます。そして、それを断る・断られることは、大きな壁や岩にぶつかって、世界がバラバラになってぐらんぐらんに揺れるような衝撃として感じます。とても怖いです。わけわからなくなって、キャーッとなってしまいます。

緊張するときもそうですが、こういう時も(この時も緊張するわけですが)、自分のたましいが右上のほうに抜けてしまって、体が斜めになって、地面が柔らかくうにゃうにゃとうねって、体の表面がしびれて感覚がなくなって、自分がきゅーっと小さく縮んでなくなってしまう、耳がきーんとするような感覚を感じます。

別記事の該当部分です。

また、『僕の彼女は発達障害2』で、あおさんが「頼んだり断ったり、休むことが苦手」というエピソードが出てきますが、まさに、反応など含めて私と同じだなあと思います。会社を休めない、というエピソードも、私にそっくりで痛々しく印象にのこっています。私は体調が悪くても出勤し職場で倒れてすぐに帰宅させられていたり、また最後にはどうしても体が動かなくなってしまい、パニックを起こしてパートナーに欠席連絡をしてもらって、やっと休めました(そして発達障害が発覚)。発達障害ではなくとも、落ち込みやすい人や、うつの人なども、こういうタイプが多いでしょう。


私は「断る」事に対し、上記のように感じてとても疲弊してしまうし、そもそもうまく断れていないことがたくさんあると思います。
結果、そういうしんどさを避けて、人と関われなかったりも、します。

今回うまくいったのは、「気分表」の荒れや悪夢を自覚できたこと。そして、文字媒体での(視覚的な)やりとりであったことが大きいです。

少しづつ、自分のできる方法で、うまくいった、「断っても、休んでも、大丈夫なんだ」という体験を、いまからでも、積み重ねて、練習したいと思います。

いまついてもらっている支援者さんいわく、「休める」「ヘルプを出せる」ということは、「非常に大切」で、「雇う側は、そういうことができる人の方が安心して、雇える」のだそうです。
特に、これが出来るのが当たり前とみなされやすい一般雇用では問われることが少なくても、障害者雇用においては、大切なことのようです。

これが発達障害者は苦手な傾向があるので、「えっ!」とも思いますが・・・
どうしても断れないなら、ジョブコーチをつけたり、支援者さんとやり方を相談する、ところまでは、できるようになると、自分も周りも楽だと思います。
「できない」ことではなく、「できない」を「できない」と表明すること。
これができれば、能力に凸凹の大きい発達障害の人も、もっともっと「凸」の部分を発揮しやすくなるかもしれませんね。

2015年9月21日月曜日

「見えない障害バッジ」が届いた!



見えない障害バッジ」が届きました!
楽しみにしていたので嬉しいです。

電車なんかでは、しんどいときはヘルプマークを出すけれど。
私の場合、いまの生活では、あまり外に出ないこともあり、常には、必要ないこともあります。
けれども自分のお守りとして。
自分が何者か、忘れないために。
(私は自分がなにものか、といった立場や、ものごとの定義が不安定になると調子をがたんと崩してしまいます)

 

ふたつ、当事者用を購入させていただきました。

ひとつは、こんなふうに、作っておいた凸凹パーツとともに、かばんに。
イヤーカフやペンダントとも迷いましたが、肌に触れるものを減らしたい。ということがありました。(イヤーカフは平気ではありますが、長時間はNG)

もうひとつは、まだ開封しないでいます。
凸凹パーツを作って一緒にとっておこうかな、と思っています。

きっと、外にお仕事に出るようになったら、名札を使うでしょう。
そのとき、もしつけられる環境なら、一緒に、つけようかと思っています。

その日がくることを願うお守りとして、引き出しに。
壊し屋・なくし屋でもあるので、そんなときのお守りとしても。


とうめいなうつくしいバッジ。
ハートがついているものを見かけたら「なにか抱えているのかな?」とふっと思うだけでいいのです。何もしなくていいのです。
ハートがついていないものは、啓発用。「私はあなたを助ける準備があります」ということ。常にたすけるひつようはないのです。そういうこころもちで、いるよ、というささやかな表明。

また、ヘルプマークの、ハートと「+」のマークのセット(「ハート・プラスマーク」)は、見えにくい内部障害などを抱えたしるし。これも、配慮や助けが必要になることがある人がつけています。こちらは当事者だけが身につけます。


ヘルプマークや、こういうバッジが、広まりますように。
ほんのすこしだけ、じわじわ広まって、あたりまえの多様性が、あたりまえになりますように。




2015年9月18日金曜日

とりあたまちゃん

我が家ではパジャマは洗面所ではなくタンスにあり、そこからパジャマを脱衣所まで持って行って、お風呂に入ります。


おまえのせいだよ!

凸凹ちゃんはウッカリとりあたまちゃんでもあります。
おっちょこちょいです。
だいたい毎回これをやります。
(AD/HDの診断はありません。ただのとりあたまちゃんです)
しかも毎回「暗い!何で!」って言います。

もう一度。


おまえのせいだよ!


毎回めっちゃビックリします。

よくありませんか?
電気つけようとして消しちゃうの。

私は脱衣所以外でもとてもよくあります。


2015年9月17日木曜日

支援者さん、ありがとう。

面接練習を終えました。

無事、話をすることができました。
短期決戦に強いのです。
さて、本番までしばらく間があくので、背追い込み過ぎないようにするのが課題です。

支援者さんがとても頼りになります。
発達障害の方を主にみているようで、「色々な方がいる」ことも、「典型的な症状」もある程度ご存知で、さらに「支援が少なすぎて、当事者が困っている」こともわかってみえます。その上で、「私がついてるから大丈夫!」と言ってくださいます。

私はパッと見、コミュニケーションも取れるし、支援が必要だとわかりにくいです。

でも、それでも、必要なのだということを理解してくださり、支援してくださいます。すごくありがたいです。そして、すごく歯切れよく「障害者」「発達障害」という言葉を使う方で、なんだかうれしく思います。

「できてるから、大丈夫」
「障害者雇用では、できないことを言える、出来ない時に「すみません」といえることが強み。それを自分で言える人は、会社側が安心する。うまく話せなくても、内容がグッチャグチャでも、決まって行く人はいっぱいいる。」(これは発達さんがとっても苦手なことではありますが、面接で詰まった時に。)
「一般の面接と違って、いじわるをしてやろうとか、落としてやろうなんて人は、まずいない。素朴に、わからないから聞いていると思ってね。安心してね。」
「私の担当する人は、本番で同行(面接に)できなくても、全員、会社さん側には、先に「支援者がつくから安心してください」ということを伝えます。面接には一緒に行けないものもあるけど、安心して。頑張れれば、大丈夫。あとは、ご縁だから。」
「センターさんにも連絡しれます。全部は一緒にいれないかもしれないけれど、センターさんも、あなたを心配してみえるよ。」
「発達障害の方は、色んな人が居て、喋れないけどものすごくデキる人も、ものすごく喋れるような人もいます。すごく喋れる、上手い人、他にもいるよ。それは強みです。でも、会話が出来るかどうか、というそれだけで判断しないように、ということは会社さんに伝えています。大丈夫よ。」
「出来ない部分を補えば、普通、普通以上に能力の可能性がある人たちなんですよ、と伝えています。」

こんなようなことをたくさん言ってくださいます。なかには、通常書籍に書かれているようなことも有りますが、「自分の支援者さんが直接そう言ってくれる」のは、大きく違います。

また、この後、センターの担当者さんからも電話があり、プチ面接練習みたいなこともしてくれました。びっくりしました。いま、センターさんも忙しいだろうに(センターさんは面接会の運営側のお手伝いがあるみたいです)。そして、私は最近センターとは連絡を取っていないので、ハローワークと連携してくれているさまも、実際にわかり、すごく安心しました。そして、第一希望にはハローワークの支援者さん、第二希望にはセンターの方がついてくれることになりました。第三希望は私の場合しゃべることができるため、優先度が下がり、一人でがんばることになります。でも、支援者さんがこんなに支援してくださってるから、私は大丈夫なんです。

とにかく、とにかく、

ふたりの支援者さん。

ありがとう。

そして、お医者さん、心理士さんも。
みんなみんなありがとうございます。

もりはがんばるよ。
いっぱいいっぱいにならないように。
がんばらないように、でもがんばるように。

がんばろう。