2015年3月28日土曜日

聴力検査を疑っていた

わたしの聴力は正常です。

しかし、今までずっと

わたしは聴力検査には出ないみたいだけど、絶対耳がわるい・・・きっと学校の聴力検査には何か欠陥が・・・」

と思っていました。

聴力検査は、わたしは耳に機械を当てて、数種類の高さの「ピー」という音が聞こえるか否かで検査していました。
そして、それはとても正確に聞き取れていましたし、問診でも問題無し、という結果を毎年、各学校の健康診断ではもらっていました。

けれども、わたしは「耳がわるい」と感じていました。

なぜなら、授業中、発言しているクラスメートの声が、全然聞き取れないということで難儀していたためです。
何か発言していることは口の動きやもごもごでわかるのですが、それが「何を言っているのか」わからない。場合によっては、声もかき消されてしまう。
それなのに、誰も聞こえていない素振りや「聞こえません」という訴えをしない。
みんなが聞こえている声が、聞こえない。

なのに、聴力検査に引っかかってくれない。

もはや引っかからないことがかえって不安でした。しかも、聴力検査で引っかからないということは、「聞いていないだけで、聞こえている」わけで。困りました。

先生の声は、大抵聞こえました。
なぜなら、先生の発言の時は、いつもよりクラスは静かになって、また、先生は話をするとき教壇にいることが多いため、教壇の周りは空気だけでうまく響いて、いい感じにわたしの所に声が届きました。先生なので、大きな声で話しますし。私の場合は、聞けていました(というか、困った、と感じていませんでした)。もしかしたら、緊張度も違うのかもしれませんが・・・。
 


図にすると、こんな感じでしょうか。人間やものをたくさん正確にかけないので、必要なところだけ。 ゴミのように舞っているくろいつぶつぶが、じゃまで聞こえません。多分、小さいささやきや物音だと思いますが、今となってはよくわかりません。当時はこれが「雑音」という認識すらなく、「もやもやして、ぜんぶいっしょになっちゃって、わかんない・・・」とただただ自分の耳がおかしいのだと思っていました。
授業中などにしかめっつらで話を聞いていたわたしは、必死でした。

私の場合、この状態で授業を受けていても予習で教科書を読んでいたこと、文字からの吸収がとても良かったこと、突き詰めてしまう性質が勉強にも発揮されたことで、あまり問題は起きませんでした。ただ、「 あの聴力検査は間違ってる!ピーなんてそんな音が聞こえても仕方ないのに!お医者さんの声がわかったって仕方ないのに!授業とかの人間の声でやってよ・・・」と聴力検査の方式に不満たらたらではありましたが。

これで本格的につらい思いをしたのが、社会人になってからでした。
教員として働き始めたわたしは、案の定
生徒の声が聞こえない」。
教壇から生徒まではそこそこ距離がありますし、声が小さい子も多い。
ざわざわも、ある。
こんなに聞こえなくて、すごくはっきり生徒は発声してくれていて、何度も聞き返されて、うんざりしているのがわかる。私が静かにさせられないせい?私の耳がおかしいせい?

結局ほどなく働けなくなってしまったので、そこまで止まりですが、なんとも困ったのでした。そのくせ大きな声も小さな声もいろいろ聞こえてきて、職員室で起こっていることは、端っこの席だったのにだいたい全部聞こえてきていたので、それも負担でした。



いまは、無理のない生き方を探しているので、上記のことについて、もやもやして困った、とは思っていません。
発達の凸凹を示唆され、「聞こえすぎる」「拾いすぎる」、いわゆる「聴覚過敏」という症状を知り、「自分のことがわかりにくい」、「感覚鈍磨」を知り、試しに「耳栓」をしたことで、すこし楽になり。
今日、こんなことがあったなあ、と思い出したので書いてみました。
教員をしていた頃のことは、いままであまり思い出さなかった・思い出せなかったのですが、最近は頻繁に思い出し怒り・パニック・泣きをしていました。今日はそこから一歩進んで、文章にできてほっとしています。これから思い出し怒りがなくなるとは全く思いません(同じことで何回もタイムスリップしているし、解決策がないので、すっきりしにくい上に、忘れにくい脳。なんともはや・・・という感じです。)が、書いて「ちょっと面白い話」にするのはわたしにとってとても良い効果があると思います。



2015年3月27日金曜日

診断を受けるのはなんのため?

わたしは今のクリニックに行く以前に、幾つかのクリニックに行っています。

①在職中。薄暗い診察室でただただ薬を出して「そうそう、気楽にね〜〜」というだけ・どんどん薬が増えて行く状態だったので、怖くなってやめてしまった。

②辞職後。一番長くかかっていたクリニック。ここで発達障害の診断を受けた。ただし、「なんらかの発達障害があります。それによって今の状態が起こっていますね」という大雑把な診断。しばらくはとてもうまく通えていたが、「発達障害だと思います」という言い方だったために、半年以上にわたって、それが診断されている状態、と理解できず、もやもやを抱えてしまい、何度も確認行動をとった結果、「何度も言ってるよね?聞いてなかったの?あなたは発達障害だって診断されてるんだよ。これ以上はうちではできないから、紹介状書く」とこじれてしまう。

③専門医。児童精神科、大人もみる、とのこと。いろいろな症状は学習で外で出ないようにしていること・うまくしゃべれない・準備していったもの等をいつ出せばいいのか、出していいのかわからない混乱があり、「ぴょんぴょんクルクルしちゃうのが発達障害だから、あなたは違うと思うよ」と言われる。うまく言えない・・という焦りと「やっぱりわたしは努力が足りないんだ、なのにこんなにいろいろな人に迷惑をかけて、診察に時間まで使わせている。もういやだ!」という絶望で、脱走・自傷(頭がんがん)・歩いてるうちに道がわからなくなって失踪したいな・・・と意味のわからない考えにとりつかれ、あてもなく歩きまわる。(※我に返ってお金払いにいったら、すごく遠くまで走っていったらしく、めちゃくちゃ迷った。)

④現クリニック。③までで大混乱を来たしていたわたしは、もうどこにも行けない・・・とにかく自分の努力が足りないんだ・・・と思い、1週間ほどは生活していたが、結局外の仕事に行けなくなってしまい来院。
はっきり言わないとわからない、ということをやっっっっっと伝えることができ、「どうですか?」ではなく少し具体的に質問してもらえている。また、「気分表」を出すと、しゃべることができなくても診察が受けやすいですよ、と、教えていただき、出すことで、診察を受けている。まだ何の診断もでていない状態。



わたしはおそらく「(受動型ASで、)過剰適応タイプ」という分類が一番近いです。
そして、えっちらおっちら大学を卒業したものの、就職先で適応障害を起こし、特性を和らげる体力精神力がないために、どーんと出ているような気がします。

さらに、「発達障害」の示唆があったものの、確定に至らず(本当は確定していたわけですが・・・)、とにかく発達障害について調べに調べました。付箋だらけの本と、プリントアウトしたインターネットの情報でちょっとした山ができます。
ここで、なんとなく対策などもたてられました。その一つがこのブログでもあります。
しかし、「どの情報も、100パーセント自分に当てはまるものがない」ことや、「証拠がない」「本に出てくる当事者は、診断をうけている」ことが、気になって仕方がありませんでした。


わたしはどこまで、どうやって頑張っていけばいいの?
わたしは普通に働けないの?働かないの?もっと頑張らなくちゃいけないの?
いつになったらうまくいくのか?
どうして小さい頃にこういう支援をうけられなかったんだろう・・・。


と、考えても考えても仕方のないことばかりで頭がいっぱいになってしまいました。
大まかに、そのために、②③のような経過をたどってしまったわけです。



今でも上記の気持ちはあります。時々とてもしんどくなります。
でも、最近はそうでもないな、ってふっと思えることも増えてきました。


「発達障害」ってつらいことばかり?

そうでもないよ??

って思うからです。
不便といえば不便な体です。
そして、それをわかってもらいにくい。
200パーセントで頑張ったら、次の日寝込むかもしれないけど、できることもあるし。
診断がないと、配慮もお願いしにくい。
特性上、「ASD者のための〜〜」というグッズ等に手を出しにくい。
ああ、面倒くさいな。
ていうか、わりと困るやん。

とも思うけれど。
そこそこ面白い。


今はインターネットがあって、都会よりはちょっと静かな田舎で、似ている人と交流したり、情報を集めて知恵をつけたりできます。デジタルみみせん、ノイズキャンセリングヘッドホン、体幹にきくクッション、姿勢の問題、中敷・・・すごくいいことばっかり知ってる!
うまく話せないぶん、文がたくさんかけます。
イメージに飲まれるのは疲れるけど、それがなくなったらつまらないなあと思ってしまいます。
ものを作るのが好きで得意で、そういう仲間といると、「ちょっと違う子」のほうがむしろ、けっこう普通だったり。
仕事がうまくいかなくて、「できないこと」「教えてもらうこと」を出すことができるようになりました。もちろん、私が人に恵まれている、ということが大きいのでしょうけれど。
仕事がうまくできなくて、ヨガをかじり始めて、運動って「体育」より100万倍楽しいやん、って思いました。


こうやって書くと恥ずかしいけど、書き出したいいことをお守りにします。

いまさらこどものころに戻れないし、別に本の通りじゃなくても、「本の記述と私の状態は、似てるな」と思ったら、そこだけ楽になる方法を借りればいいよね。大人になってしまうと、特に高機能の場合、支援も少ないし、それが今は手っ取り早い。

少なくとも、「本の通りに、私、苦しんでます!」っていうことは、全然目標じゃないよね。

どうなるかわからないけれど、ちょっとずついこうかな〜と思えているうちに、記事を書いておきました。

とりあえず、二次障害を治療しがてら、今のお医者さんに通っていこうと思っています。
うーん、これからどうしよっかな?
とにかく好きなことは続けるけど、うまいこと好きにやるためには、どうしたらいいかな?って、わがままなこと考えていよう。それが結果的に、周りにとっても楽なんじゃないかなあ、という気も、少ししている。



2015年3月22日日曜日

わたしの共感覚もどき

私にとって、言葉・文字には色やうごきや手触りやイメージや風景があります。
文字そのもののカーブなども見とれてしまいますが、文字やことばにうっとりしてしまうのはそれによるところが大きいです。

一般にこのような感覚を持つことを「共感覚」とよぶそうです。
赤ちゃんはみな共感覚をもち、感覚が分化するに伴って、それは薄れる、ともいわれているようです。


共感覚にもいろいろタイプがあり、「本当に見える」タイプもあれば、イメージタイプもあるようですが、わたしはどちらかというとイメージタイプです。一番強いのはどうも触覚、時点で視覚です。音はありません。音に変換できる空気感は感じますが、よくわかりません。
イメージタイプなので、それが現実ではないことはよく承知していますが、ことばや文字にそういうものを感じていることをどうしても確信してしまうのです。文章にするとちょっとアヤシイ、えせスピリチュアルのようになってしまい、とても不本意ですが。

ことばや文字は触れるし、見えるし、空気のように感じられる。飲める。味もある。動いてるのもある。触るととても良い気持ちです。安心します。

この感じをどうやって説明するといいかな?という、現段階での答えが文にできそうなので、記録します。

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①わたしには、ことばや文字のすべてがわかります。
そこではことばは空気でのみもので手触りも味もあり、色もあります。
わたしはことばをざらざら集めて頬ずりしたり、くるくるしたり眺めたり、舐めたりかじったり、撫でたりして、ごろごろ心地よい空間であそびます。わたしはとても自由です。自由に体も動かせるし、表現もできます。ひとりだけどきもちいいことばがいっしょです。
こわいことばは恐怖。恐慌状態です。

②①の「わたし」は体に入ってます。体は、「わたし」と違って盲目で、触覚などが感じにくいです。だって体の形の容器に入っているから。「わたし」が感じていることはうっすらわかりますが、それを外の世界に対して変換することばをもちません。感覚も「わたし」より薄いので、「どういう色か」「どういう動きか」「どういう感触か」などは、部分的、ときどきしかわからないし、うまく言えません。

でも、感覚はあるので、時には自閉したわたしが容器いっぱいになって、容器も一緒にごろごろ、ことばをあつめてあそんでます。
自分の横にことばを置いて、横目で眺めたり、見えないんだけど、なでたり。良い気持ちがします。
ころがったり、びよーんと伸びたり、ゆらゆらしたり、ひとりごとしたり、口から音が出るときの口の感覚は、ちょっと①の感覚みたいで、いいな。と思います。※

こわいことばは意味わからないけどとにかくいや。どうしてこわいのかわからないけど、いや。でも、体は、暴れたりしちゃいけないのをわかってます。それに、体は感覚がうすいから、気がつかない時もあります。
限界になると、大恐慌です。でもよくわからない。でもとにかくぎゃー、と泣きわめいて暴れるしかない、落ち着くまで。※※


③外側からは以下のように見えているのはわかるから、できるだけ控えないとなあ。
※おそらくこれが「おうむがえし」や「ひとりごと・一人遊び」「感覚遊び」
※※パニック・爆発・意味のわからない号泣


①のイメージ。わたしは②なので、本当はもっともっとよいものだし、具体的で、手触りが良くて、よいものなんです。

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以上

共感覚と一口に言っても、いろいろあるようですし、自分のもつこの感じが、共感覚というものなのか自信がありません。しかも、共感覚というと「絶対音感!」「アーティスト!」「天才!サヴァン!レインマン!」なんていう仰々しい印象が付いて回り、「うーん、そんなにすごくない・・・」と思ってしまいます。しかも、実際のところ、①が全面表出(実際に見える人はこれかな?)ならまだしも、わたしは②で生きていますし・・・。
だから、わたしは自分のこの感覚を「共感覚もどき」と呼んでいます。

でも、すごくたのしくて気持ちがよいものです。①にも②にも③にも足を突っ込んでいるのは、よくばりなのかも。
①の世界で自動でいろいろなことができて、感じられて、とても自由なぶん、②・③のわたしはいろいろな感覚や機能が手動なのかもしれません。人間そういろいろできませんね。

2015年3月19日木曜日

顔色伺いが欠けている?

先日、この記事を読んで、面白そうだったので自閉スペクトラム者対象の実験に参加してきました。


表情認知も視覚過敏もそんなに自覚がなかったのですが(生まれてからずっと同じ感覚を搭載している上に、自己モニタリング能力が著しく弱いためだと思います。過敏なくせに、過敏を受けとていることに鈍感で、痛みに強い。)、どうやら自覚なく過敏であるということもあるらしい。これは面白そうだ、と興味をもちました。


また、昨年、はじめて知り合いになった方に、


初対面:
お前はすごく失礼だし話が長い。しつこい。面倒臭い。どうでもいいことにこだわる。上から目線。俺はお前が苦手だ!」

さらに3回目:
「前からお前は何か変だと思っていた。今日それがわかった。お前は”顔色伺い”ができていない
(そのくせ、これを行った時の彼の「うまいこと言ったぜ!どーだ!」的なドヤ顔はとてもよくわかった。よくわかる顔だってきっとそこそこあるのだ。)


と言われました。
ただし、私はといえば一回目は「そうか・・・自覚がなかった。周りの人がするのと同じように接していたつもり※だったのにな ・・・」と落ち込んでみたものの、3回目は自分の発達の偏りが判明しつつあり、鬼のように調べ物をしていた時期と重なっていたために、彼にとってはおそらく不運なことに、

※彼に会ったのは知人を通じてなのですが、彼に会うときはその人たちも一緒です。その人たちと彼は私と違って初対面ではない間柄で、彼らは少なくとも親しげに口をきいたり、けなしあっても失礼ではない年齢・付き合いなのだと思います。そこをふまえずにただ「彼にはこういう風に話しかければいいんだな」と彼らのふるまいをコピーしてしまった、というミスでしょう。かといって中途半端にくだけた席で、上下関係はないものの年齢差のある、したがって相手からはフランクに話してくるという場面に対し、どうしたらいいのかは未だよくわからない。立場と適切なふるまいがあいまいな会は難しい。

「そう?!やっぱり?!発達偏ってるらしいんだよね!!!でもこんなにきっぱり言われたの初めてかも!もしかしたらやんわり言われて気づいてないだけかもしれないけど!!どの辺が読めてなかった?!?!?!うわーおもしろい!!ひゃはあ!たのしい!自分の体使って研究できるとか最高?!?!?!」

などと、鉛筆片手に質問攻めにしてしまったのですが。まさにこの辺が読めていないことが、いま、この出来事を文字にして、理解できました。・・・これは表情認知とは別の問題ですが、ドヤ顔がわかってもそれに対して 適切な/発話者が求める 反応を示せていませんね。

いちおうこれ以前にも臨床心理士との面談で
あなたは発せられる言葉をそのまんまとらえてはいるけれど、相手の身振り・そぶりや、表情はまるで見ていないね。
とは言われていたのですが、「どうやら専門家ではない人にもわかっちゃうくらい顔色を読めていないし、そもそも見ていないっぽい(自分ではけっこううまくやっていると思っている)」ということが衝撃で、表情認知がどのくらいできていないのか気になっていました。そして上記の被験者募集があったわけです。「普段は人の顔なんてそもそも見ていないから、やればできるのでは?」という変な期待も含みつつ出かけました。大学と名のつく場所が大好き(大学は、一番好きなことができて、楽しかった場所です)なので、どきどきしながらも大学を歩き回って研究室へ。

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結果は、「全然わかってない」。

びっくりしました。
実験を受けている最中に、すでにわたしは(アカン・・・これ0点取ってしまうやつや・・・)とは思っていたのですが、もう、まったく、ほんとうにできませんでした

びっくりしました。

プラス(笑顔だなー。という印象)か、マイナス(怒ってるか機嫌が悪いか不快なのか不明だが、どうやら何か不満らしい、こわい顔。という印象)しか認識できない。

写真を次々見せられて、6種類くらいの感情に当てはめる(これは「悲しみ」だな、などという具合に)のですが、始めてすぐに

表情、「+」「ー」「ゼロ(ノーマル)」3種類では?????
選択肢に「ノーマル」が足りないのに、なぜほとんど「ノーマル」????

という疑問で頭がいっぱいに。しばらくフリーズして、大学のスタッフさんに心配されました。
私が固まっているのを見て「わからなかったら、わからない、を選択してください」と教えてくれたので、「そうか、これはわかってないのか・・・おかしな・・」などと勝手な感想を抱きながら「ノーマル」に見えたものは「わからない」「+」は「喜び」「−」は「怒り」にぽいぽい選択しました。あまりにもこればっかりなので、そんなはずは・・・と思って、シワをめっちゃ見たりはしたのですが、そんなの、ただのカンやん、という話で。

したがって、結果は全然ダメ(しかも、「喜び」は偶然でも正解数が多くなるはずなのに、めちゃくちゃ成績が悪い。)な上に、合っていた部分に関しても、社会生活上、あんまり意味がない感じ。
みなさん、表情を見分けるのが得意ですね・・・表情過敏????

まあ、この程度でもそこそこ幸せになれる方法を探そうと思います。

このあと表情ごとに決まった色(個人の感覚で色を設定)をのせて同じテストをしましたが、なんだか私には効果があるのかないのかよくわかりませんでした。むしろ「表情と色があっていない時」に、違和感がすごくて、成績が少し上がりました。おそらくそれまでの実験で、色と顔の組み合わせを画像として(平面で動かない写真の場合、すごく覚えるのが早いです。親の似顔絵は部分しか描けなくても、「親の写真」の絵はサラサラ描ける。)覚えちゃったから違和感が起きたのだと自分で推測しています。
スタッフさんによると、けっこう効果あり、とのことです。たしかに、実感はともかく成績はぐんと伸びているのがすごいです。表情ごとに色をのせる機能のあるめがねも、かけさせてもらいました。やっぱり人の認知って面白い。

また視覚過敏の実験については、手順書を渡されたもののそれは「しまってください」と言われて素直にしまってしまい(ここで「文字で手順をひととおり見たい」と主張するスキルが必要)、OJT的な手順説明をされて、「次に何がおこるかわからない不安」だらけになって3回くらい固まってしまい、なんだかよくわからなかったのですが、とりあえず「情報量が多い(ひとごみ等)」ところ(これは視覚過敏は二次症状だろうと思います)「光量の差が大きい(夜道、明かりのあるところとないところの境目等)」ところで視覚過敏が多少あるかな?という感じです。とりあえず、今の所は田畑に囲まれた家にいるので、そこまで困りはしない、という程度。

さて、さらにこの実験に参加したのは1月頃のことで、現在はすでにこんな感じの記事が出ています。
いろいろな見え方があるのは、自閉スペクトラム児者でなくともそうでしょうと思います。幼い頃はそれがとても怖かった私ですが、今は面白いです。
見え方にさまざまあるのは当然にしろ、それによる不便をなくす研究や、さまざまな認知の仕方が明らかになるのはとてもいいことだなあと思います。