2014年12月31日水曜日

ことばをつかまえろ! - 車酔い-  精確版

「乗り物酔い」ってどんな意味

私は自閉スペクトラム症(以降ASD)であり、感覚の過敏や鈍麻をもっています。

しかし、先日「感覚鈍麻」せいで「よく理解できない」と感じていた「乗り物酔い」の「言葉の意味」について、意味を捕まえることに成功したところ、乗り物酔い・体調不良に関しては、鈍麻もさることながら「社会性・想像力」の凹みによって捉えづらくなっていたことがわかりました。

もしかしたら、表出する症状に隠れて、別の特性要因がひそんでいる当事者が、たくさんいるのではないでしょうか。
そんな当事者に向けて、今回の私の事例をお伝えします。
もしかしたら、「困っている」と感じていること以外の特性に対する働きかけで、おもわぬ解決がみえることがあるかもしれません。「ちがう」とじぶんでどんなに確信していることも、誤解かもしれません。自己理解と他者(たとえ定型のひとでも、です)理解は表裏一体である場合もあります。気持ちが落ち着いている時に、読んでいただき、生活がらくになる人がいることを願っています。

ASDは”累乗の障害”

ASDについて調べると、まず出てくるのが「ウィングの三つ組」です。これは、ASDの核をなす障害特性が「想像力・コミュニケーション・社会性」の3つである、というもので、ウィングが提唱した自閉症の概念です。現在のASD診断基準にも、ウィングの三つ組が反映されています。(※私自身は、これが自閉症の核だという考え方とは異なる考え方もある、と提案していますが、ウィングの三つ組も正しい、とかんがえており、今回の説明にふさわしい例として、俎上にのせております)

そして、ASDの困難というのは、この三つ組を個々に抱えているわけではなく、特性が相互に影響し合い、強化したり、打ち消したり、一見別の要因にも思えるような様態が、外見上ではあらわれる点であり、ここから、「自閉症は累乗の障害である」と考えられています。

「乗り物酔い」、外見上のわたし

さて今回は先述をふまえ、最近わたしが”理解した”「(乗り物)酔い」という言葉について述べてゆこうと思います。

わたしは、おそらく外見上「乗り物酔いしていない」ふうに見えます。

ところが、わたしは2014年12月、24年生きてきてはじめて、「自分は乗り物酔いをする」ことを認識し、「乗り物酔い」ということばの意味を知ったのです。

理解するということと、わたしの特性

私は、ASDのなかでも、IQが高く、かつ言語能力(言語性IQ)にも凹みのない、いわゆるアスペルガータイプです。

さらに、自然言語、なかでも母語である日本語に関するこだわりが非常に強く、若干の共感覚をもっています(文字およびことばに色や動き、手ざわり等を感じます。他人はそうでないと知ったのは23歳の冬です。)。

そのため、”言語理解”に関しては、自分ではあまり問題だと認識していませんでした。

たいていの言葉(文字でも文章でも)は、共感覚から推測したり、知識をもっているため、流暢に意味を説明できます。むしろ一般の定型発達の人よりも言語は理解している、と思っていたのです。さらに、説明はことばだけでなく、五感、とくに視覚的な説明をすることもできます。

そして、「乗り物酔い」という言葉についての大まかな私の理解は、次の図でした(視覚的な認識をしていて、図とのマッチングでおぼえていました。言葉に変換することも可能ですが、感覚的には視覚優位の入出力、記憶法だと思っています。)


図1 吐く人
※あくまで大切な要素を抽出したイメージで、実際の私の頭の中の画像とは異なるものです。


シチュエーション=背景画像は「船」「電車」「バス」等複数枚ありますが、とにかく

乗り物に乗ったら、嘔吐してしまうこと

を乗り物酔いだと認識していたのです。
この図にピタリと当てはまれば、「乗り物に酔う」という言葉が適用される、と思っていました。


「うん、あってる」とお思いになるかもしれません。
では、次のような症状が、乗り物に乗ったために起こった場合、先の図に当てはまるでしょうか?

a 少し胃がむかつくが、吐くほどではない
b 頭痛や目まいがするが、まだ倒れたりはしない
c 食欲がない
d 気分が悪い

a~dまでを図におこすと、次のような感じでしょうか。

キャプション:図2 気分の悪い人
※あくまで大切な要素を抽出したイメージで、実際の私の頭の中の画像とは異なるものです。
*わかりやすくするためにフキダシを入れた図を作成しましたが、もちろん現実にはこんなものはありません。


さて、おわかりいただけましたか?
図1と図2は、ピッタリ重なるわけがありませんよね。

ゆえにわたしは、a~dのような症状があると感じても、「乗り物酔いではない」し、「我慢するべきで、みんな我慢しているんだ、酔った、と主張する人は、嘔吐しそうなほどつらいんだ」と思っていたのです。

生きるために必要な「ことばの理解」とはどういうものか

さて、わたしの「酔う」の理解は足りていませんでした。しかし先日、知りあいとの会話でa~dも「酔う」という言葉(現象)に含まれる、ということがわかりました。さらに幸運なことに、その会話である友人が「もう我慢しないでいいんですよ(笑)」(半分、ギャグも含まれますが)と言ってくれたのです。
これで私は、「酔う」ということばだけでなく、(1)自分に納得のいく説明 、くわえて、(2)定型多数の社会における「酔う」の主張方法 =これは、言語化された空気の読み方ですね。 (3)「我慢しない=主観を主張できる」という「程度=どこまで?」についての、「じぶんが不快なら程度は問われない」という安心感 を得たのです。
すなわち、わたしがことばを扱うときに必要だと思っていたのは(1)のみで、わたしが社会で快適に生き、感覚過敏や感覚鈍磨をらくにするために本当に必要だったのは(2)、そして(3)なのでありました。そして、定型発達者は、「意味」ということばに、無意識のうちにこれらすべてをふくめつつも、「意味」の意味を説明するときには、それらは「空気」として扱ってしまう(無意識なので仕方がありませんね)。だから、われわれASD者は、それを読めず、困難を大きくする結果となっているのかもしれません。

まとめ


まとめとして上図に起こしてみました。
結局、自分では自覚できない部分の障害を、どうしてゆくのか?
自覚できないってことは、困っていないのか?本当は困っているのか?
わからないけれど、とにかく毎日発見して、研究するのは面白いです。

どうやらわたしは自分で思っているより「言葉」の知識が偏っているし、「社会性」に至っては壊滅的なのかもしれません。
うまく環境やかかわる人を選べたために気がつかなかったのか、どういうことなのか、わかりませんが、「仕事」をする上で、はじめて表面化した問題がとても多く、
どうして教えてくれなかったんだろう?
がとても多い気がします。
「 酔う」ということばひとつとっても、小学校では「気持ち悪いです」、と朝、気分の悪い子が報告していたのを思い出します。私は、「気持ち悪い」が何かわからなくて、病院送りになるまで自他共に認識できずに「ちゃんと言え!」怒られていた。おとなになっても、友人に「体調管理しろ!どうしてわからないんだ、ありえない。」と言われてきた。うーん、むずかしい!



このあたりからはボヤキですが
どうせ道徳をやるなら、「人の気持ちを考えよう」うんぬん、じゃなくて、
「なぜ考えるべきなのか?」
「大抵の人間が不快になる言葉集」
とか、マニュアルにすればいいのに。
多様性を認める、ということは、反対のことのようだけれど、「ルールで動く・それ以上でもそれ以下でもない」ということではないのだろうか?全ての人にやってほしい(と無意識に定型発達者が望む)事柄は、明らかにしてほしいなあ、とおもうのでした。
空気の存在を認識できなくてもそれに自動で従ってしまう人々には、むしろこれがむずかしいのだろうなあ。私たちはその逆がむずかしいのです。私はあなた方を否定していません。どうにか歩み寄りたいのです。そして各個人でそこそこ幸せになりたいのです。



2014年12月30日火曜日

Challengedの記事とこちらの記事について

明日の11時に、Challengedというwebマガジンに、私の書いた記事がアップされます。
名前も同じくKanoko MORIです(サイトのつくりの関係でアンダーバーが表示されるかもしれませんが)。

今回アップされる記事は、ブログとは文章のテイストも変えていますし、内容もブログで公開していないエピソードです。

ただし、今後は「内容が同じ」ものもアップされる可能性があります。

それはなぜかというと、

・Challengedの主旨として、「一般の人に読んでもらうこと・発達障害の存在を知ってもらうこと」がメインであるため、「硬い」文章だと、めざすところの読者が減る、という認識のため
・しかし、わたしの「言葉へのこだわり」ゆえに、上記の文章だけでは不満が残り、どうしても納得できない。
・今会のマガジンへの執筆はボランティアであり、著作権はすべてKanokoMORIにあるため、「challengedに書いた記事をそのまま別の媒体に私がのせること、書き方を変えて別で公開することは構わない」と了承を得ている

ためです。

そのため、一応「ライトなテイストにしてchallengedに執筆するかもしれないな〜」というものには「精確版」と仮に銘打ってあります。
このあたりのやり方は、徐々に整えてゆくつもりです。

たとえどの記事でわたしのことを知っても、とにかく「こんな人がいるのか〜ふ〜ん、おもしろいな〜」「役に立つ」と思ってもらえてば幸いです。
「障害をもっているから泣ける」などという感じ方はひどい怠慢だと思うので、ライトな記事をするからといって、そういったむやみに文章に触れたことのない読み手の感情を振り回す文を書くつもりは毛頭ありません(そういう言葉の扱いをするのはとても嫌いで、我慢できません)が、読み方によってはそうとらえられる向きもあるかもしれません(いちおうボランティアとはいえ、仕事に近い活動ですので、編集の指向にもできるだけ沿いますし)。そういう場合は、ブログの記事を読んでください。
また、ブログの記事が難しくてよくわからない場合は、すこし端的にまとめて、わかりやすい記事をあげるつもりなので、chllengedをのぞいてみてください。

2014年12月26日金曜日

ことばをつかまえろ! -autism- 精確版

 autism

これを命名した人々の意図は、

autism とはラテン語 aut = self = 自身
というところからきており、すなわち self-ism, 自己‐主義ということであり、自分中心(の 思考をもつ人々;コミュニケーション・社会性の障害)というところからの命名であるらしい。 これは、一般に自閉症スペクトラムにいわれる「(ウィングの)三ツ組の障害」や「心の理論」 における 共感 想像力 の部分からくるものであろう。

参考画像:自閉症の三つ組(ウィングの三つ組) たとえばそれは「サリーとアンの課題」において、 autism 者は自分の立場をサリー/アンの立 場と区別し、サリー/アンそれぞれの立場を想像することに困難を抱えることを、「心の理論」が形成されていない、すなわち、他者に共感・他者(の考えや感情等、自分とは異なる生きも の・思考するものの方法)を想像することについての障害、つまるところ、コミュニケーショ ンの障害、というところになるのであろう。
これはもちろん、私も正しいと思える。

まさにその通り、これが、autism 診断基準となっているのだから、これを否定することは、「今、 なんとなくではあるが専門家あるいは一般に認知されている自閉スペクトラムの概念として、 のそれ」ではないものを、新たに「自閉スペクトラム」として提案するという、まったく別の 議論であって、これを正しくないとすることは今回の文章では行わないことにするのは、この理由による。

しかしその一方で、昨今では”おとなの発達障害”にも注目が集まっており、中でも診断・当 事者および非当事者が存在を認知しづらいのが自閉スペクトラムであるように感じる(AD/HD、 ADD 等と比較して、外から障害と健常を区別しにくいのである。単なる(ここでいう「単なる」は、「脳の障害」ではなく、「性格傾向」である、というだけであって、診断基準に言及するつ もりも、ASD とは診断されない・または ASDではないが、困り感を抱えるひとびとのしんどさ・つらさを軽んじるつもりはまったくない。)”コミュ障”なのか、それとも?という具合に。おとなの場合、知的に問題がない、または知的に高い水準を示す(あくまでIQ上、いわゆる「学業成績」において)こともよくあるために、それがautism であることの特性(発達の凹み部分) を学習で補ってしまい、見えにくくなっているのだ。 しかしながら、そういった場合も当事者の苦しみが消えるわけではなく、むしろ理解されないことによる二次障害や社会適応は深刻 になり、苦しみはありあまるものである。 また、診断された当事者の主張を鑑みるに(筆者自身が当事者であるため、主張に偏りが存在 することをあらかじめ断っておく。また、ここでいう”当事者の主張”とは筆者が autism 者のブログ・twitter、著書を読んで傾向を読み取ったものである)autism者に”共感”や”心の理論”が存在しないわけでも育たないわけでもなく、けれども彼らの多くが定型一般にとってそのように見えるのは、単に認知(入力)および表現(出力)メカニズムの差異によるものであ ると考えている。(※twitter では#asp あるある等といったものがあったり、彼ら自身がそうい った表現活動を行ったり、仲間どうしで会話し、苦しさを分かちあうような活動も見られるわ けで、これは明らかに他者との交流や共感する/される関係・自己理解をもとめる行為であり、彼らが個人で”閉じて”いるばかりではないのである)(参考:田中真里・文「ひととひととのコミュニケーションとは」)
さらに、診断については、(診断といえども「社会」をより効率よくまわす、経済を循環させる いとなみのひとつであるから、当然といえば当然のこと)主に「コミュニケーション」におけ る難が問題とされるわけだが、実際には彼らの困りごととしては「感覚過敏/鈍麻」というのが 深刻に存在する。むしろ、これがために社会生活におけるコミュニケーションの困難が生じて いる場合も多いのである。
そして、これら全体を総合しまた現在主流になっている ASD の解釈というのは「入力・認知と 出力・表現のメカニズム」が定型一般と異なる、というものであろうと筆者は推測している。


筆者自身も、これが現状、もっとも ASD 者の困難をまとめた表現であるようにも思える。 しかし、それにさらに筆者は、「入力・認知 および 出力・表現」がどのように異なるのか? という点を含めた表現をしたい。さらに、それについて、外側=定型者の定めたautism という 表現も重ねて、autism ということば、そしてautismという障害そのものの核をとらえたいので ある。
その”核”についての現時点での筆者の考察を記す。

これが、私の考える「自閉」の核である。
ゆえに、autism とは、autism ソノモノ、autism-disorder、自動の障害、というわけで名前が 記すとおりの概念、という一目瞭然の整理ができ、また筆者の困り感・言語感覚的なこだわり と一致する。

もういちど整理すると、autism とは

通常ヒトの入出力機能においては自動に備わっているはずの機能が備わっておらず、マ ニュアル=手動で働かせねばならない、という困難を、障害として診断した概念

となる。
ただし、どの部分が auto で、どの部分がどの程度 manual かというのは、個々人によって異なる。

というのが、autism の本質であって、これに autism とは本来関係のない個性や、育ち影響、知能等が加わるのである。 ただ、似た性質の者が受ける外的影響というのは比較的類似してくるために、それらが外的要 因まで含めて、何となく、いわゆる、”アスペっぽい”像が形成されているのだろう。
また、彼らの抱える困難は、比較的コミュニケーション場面で顕著に発現する場合が多く、出 力については、入力の難ゆえのものであることも多い。


2014年12月2日火曜日

付箋式タイムスケジュール導入

11月に入ってから、外に働きに出ています。
さすがにまだまだフリーのものづくり業だけではやっていけないので、できそうな職場を探して働いています。
そこで導入されているスケジューリング・仕事のしかたが、とてもわかりやすかったので、自宅でも導入しました。

絵カード式・ホワイトボード式・カレンダー式などさまざまこういったスケジュール関連の支援グッズ(こことか、こことか。)はすでに存在するのですが、そこまでするのもかえって動きにくくなるかな?という考えがあって、これまでこういう形態のものは取り入れずにいました。
なぜなら、いわゆる自閉支援グッズの場合、大概想定されているスケジュール項目が「起きる」「トイレ」「食事」などの生活・清潔に必要なルーティンなのです(もちろん、それとは違う項目を、自分に合わせて作ればいいのですが、そこに考えが及ばず、また、それをするのも難しかった。これも、融通の利かなさ。)。
わたしはすでに成人しており、ある程度上記のような習慣はつけることができているため、毎日毎日、日常ルーティンをチェックするのは、窮屈で面倒なのです。
わたしがうまくうごけないのは、そうでない部分のいわゆる「フリーな時間」であるのです。

(但し、いつもと違う行動をしなくてはならず、時間に正しくこなせないといけない場合には、その日のみ、特別に、コピー紙などに予定を書いて、「朝、必ず見る場所」や、「必要な時間に必ず使うもの」に添えておきます。)

ところが、職場のスケジュールボードは、当然上記の様なものではなく、
必要な項目・必要な時間数またはいつまでにやるべきか・関係者名前
をそれぞれの人間が付箋紙に書き、代表者がタスクを振り分ける、というものでした。

そして、それぞれ自分のタスクの付箋紙を取り、仕事をします。
その仕事が終われば、付箋紙はシュレッダーにかけます。
書いてある付箋の通りに業務が進まない場合には、上司や担当者に相談( このばあいは、相談≒報告)します。

そして、その日やることが終わると、スケジュールボードはきれいに付箋がなくなります。
その段階で、「ほかに業務があるか」全体および上司に問いかけ、あればさらに仕事、なければ業務を終了します。自分のタスクが終われば、気を使う必要はなく(もちろんしごとの形態がアルバイトだからという理由もありましょうが・・・)、全員がごく普通に挨拶をして帰ります。


やりやすい!!!

どういう経緯でこんな方式になったのか?というくらいしっくりハマります。
シュレッダーをかけるときの「まりまり〜〜」という音といい、さいごにキレイになるボードといい、付箋紙のサイズ(言語やディティールにこだわりがあるため、大きすぎると要点がぼけてしまいます、そのために手帳はいつの間にか全て落書き・スクラップ・アイディア・手記のメモと化してしまいました。それはそれでいいのですが、ならばやたらに大きな手帳であり必要はない・・・→結果、薄いノートなどのカバンに入るなんらかのかみもと最低限の手帳に。)といい・・・装飾のないシンプルなボードもいい。おそらくエクセルで3分もかからず作ったのであろう質素さが、非常にわかりやすく目的を伝えてきます。

あまりにやりやすいので、自宅でも同じようにできるとよいのではないか?と思い、適当に画像検索をかけて作成してみました。しばらくこれでうまくいくか実験・改良してみます。



A4サイズでラミネートしました。一週間の予定を細かく立てるわけではない(そんなことをしたら変更に耐えられません。また、未定の部分が出ることにも耐えられないでしょう。)ので、「本日」「明日」「明日以降」に分け、付箋のサイズと書いた必要予想時間でおおよその場所に付箋を貼ります。
時間を設定するのは「本日」の欄のみで、「明日」「明日以降」の欄は、単なるタスクの箇条書きです。
ここ一ヶ月本当にひどかった「やりたいことや思索が多すぎてイメージに飲まれて過集中と虚脱を一人で繰り返し、貧血・低血圧・感覚過敏などを悪化させ、疲弊・衰弱してゆく」パターンを、ある程度短い言葉で吐き出すことで、食い止められないかと期待しています。

以前から使っていたタイマーです。時間を区切って休憩します。クルクル回して設定するのが楽しいです。
必ずしもこのタイマーというわけではなく、iPhoneを使うことも多いです。
ただ、タイマーの存在は忘れがち・・・
まあ、まいにち倒れたりはしていないので、大丈夫でしょう。思い出しては使うようにしています。そのうち週間付くか、または自分の頭に「やすみ」が搭載されたらラッキー、という程度です。


位置はここです。デスク周りをスケジュール管理場所に。作業場は別のところなので、動きがありますが、それも休憩には必要でしょう。視覚的にいちばんしっくりくる位置にしました。

うまくいくか、いかないか、わかりませんが、すこしわくわくしながら実験です。
実験は、失敗しても、実験として成立しています。よいのです。