2014年5月26日月曜日

言葉・論理・視覚・説明要求

長いですが、少しずつ、書き溜めていたものを整理して書いていこうと思っています。
いくつか書くうちに、整理されて、更新してわかりやすくできるといいなあと思います。

昔から親や周囲の私への評価は「くそまじめ(良い意味だったり悪い意味だったりするから、わたしはまじめという言葉がある時期までとても嫌いだった)で勉強はできるが、やたらよく泣く、すぐ怒る/パニックする、何を考えているのかわからない、独特な感性の難しい子」。

この評価だけ見ても、今思えば完全に自閉度の強い子どもなのだが、なまじっか学業ができてしまったが故に、性格として処理されて、あまり問題視されなかった。「くそまじめ」「いい子」というのも、学校という場においては、都合がいいために、ちょっと危なっかしい、程度で、むしろほめられてしまう要素になる。基本的に不安が強く、積極奇異やカナータイプのような目立った「問題」には見えないのだろう。

その中で、わたしがパニックしてしまう原因に上げられるのは「言葉への過敏さ・こだわり」が大きい。*
おそらく言葉の理解(表現ではなく)は早く、文字の読みかきも発達の早い部類だったと思われる。今でも、WAISの結果をみると、言語性尺度のみ、心理士さん曰く、ありえないほど突出している、明らかな優位傾向があるそうだ。感覚過敏な部分もあいまって、周囲の会話や見えてくる文字も割と認識していたように思う。
もっとも記憶に残っているのは、保育園の先生がいつもはいていた、ピンクかエメラルドグリーンのジャージに書いてあった筆記体の「molten」であって、「あれは何とかいてあるのだろう・・・めどん?メロン(melon)に似てるけれど違う。」とずっと考えていた。長じてmoltenというスポーツメーカーを知ったとき、カチッとあたまのなかで「これだ!」と、やっとあてはめることができて、非常にスッキリしたこともよく覚えている。
それから、小さい頃気になって仕方がなかったのは、「なぜ、空は、空というの?なぜ、海は、海というの?逆ではいけないの?」「もしも、逆に教えられた子がいたら、とてもたいへんなことになる・・」という疑問だった。すごく興味があると同時に、ものすごく不安でもあった。この世界の成り立ちや見通しをつけようと必死に質問していたのではないかと推測している。もう少し大きくなってから(小学校入学前検診のときにはっきり自覚した疑問)は、「色覚検査はこわい。もし、あかがあおにみえていて、そのあおを、あかだと教えられている子がいたら、「あかをさして。」といわれたら、その子から見た「あお」をさし、周囲からは「あかをさしている」ように見える。異常はないと診断されてしまう。こわい。」というものであった。この二つの疑問は周囲の大人(両親)に頻繁にしていたのだが、理解もしてもらえず、ただただうんざりした声色の、まにあわせの答えがかえってきた。(→周囲への不安・不信・あきらめが形成された・・・)たしかに、時間のない、定型の大人には、質問の意味を理解する時間すら惜しい、どうでもいい(「とって喰うわけじゃないんだから、こわがらなくていいのに」の論理)疑問なのかもしれないが。

私の、世界への興味と不安は、いちはやく「言葉のこだわり」として発露し、今に至るまで続いている。ほとんどライフワークといっていいほど、つねに言葉について考えを廻らせているし、文字があったら読んで、意味を考察したり、システムを分析比較してしまう癖がある。
また、わたしの言葉の感覚は、視覚と強く結びついた、共感覚に近いもので、文を読む(私の感覚では、ざらざらと言葉の羅列を飲む、観る感覚に近い)ときは、それは言葉一つ一つの視覚的イメージとして立ちあらわれ、論理や展開にしたがって図式化されたり、無声映画(なぜか音はない。音の描写も視覚に含んでなされる)のようになって頭をながれてゆく。私の場合、実際にみえるわけではなく、あくまでイメージとしてだが、それでも一般の人よりは言葉からうけるインパクトはこの感覚ゆえに強いと推測している。また、したがってその文章について思い出したければ、読み返すのではなく(すべて記憶するわけではないので、読み返す場合もあるが)イメージ映像や図をたどればよい。

このような処理をほとんど無意識におこなっているために、周囲の言葉への反応も過敏で、ゆえに、パニックの原因のひとつに「言葉」がなるのだろうと思う。*
おそらく、「周囲の人間が発する言葉に含まれるとげ」に過剰反応している、ということらしい。
私自身理解できるし、周囲の人間もそんなに意識をしてとげのある・マイナスの情動をふくむ言葉や音(声色も反応要素に含まれる)を使う訳ではないだろう。しかし、私の脳の、私自身には操作不可能な回路がONになっており(いつなるのか、不明。ほとんどのとき、ONであるような気がしている)、そこが、ほんのわずかなマイナスの要素にストレス反応を起こしている、らしい。
らしい、というのは、自分ではそれをほとんど意識できていないからで、また、自分で反応の原因を理解できるほど、マイナス情動が見える場合には、わたしにとってその言葉がマイナスであるのは自明すぎて、周囲の人間の認識とのギャップを捉えることがほぼ不可能だからだ(冷静になれば理解はできるが、本質的に体験することはできない)。
このことに気がついたのも、周囲からの指摘によるものだし、その時点で診断を受けて、こだわりや特性の分析をはじめていたためである。

また、言葉に付随して、論理を説明する/される要求も大きい。
ふつう定型一般では、感情にもとづいて言葉をあやつり、ある程度なんとなく聞き流しながら、会話の雰囲気(?)から、核をつかむ(?)ものらしい(?)が、それができない(できないことすらわかっていなかったし、いまも半信半疑である。これについては別の記事で書こうと思う)私は、周囲の会話を拾って感じるのは「どうして?」「どういう意味?」ということである。また、自分が何かを訴えるときにも、同様なので、感情と論理は分けていた方がわかりやすいし、論理的に説明したい、されたいという非常につよい欲求がある。かといって、必ずしも自分がそうできるわけではないのが厄介なのだが。
基本的に「異なるバックグラウンドをもつ人間にも伝わる」「すっきりとして論理的」「(自分の中の共感覚めいたものに適合するという意味で)適切な語の選択」を常にクリアしていたい。定型一般からしたら「めんどくさい!」だろうと思う。私にしても、こんなことは不可能だし、簡単にわりきれるわけがないのだから、うまくつきあう必要があると思っている。時間も労力もかかるが、研究やパターン学習で補うしかないだろう。

ただ、特にビジネスの場面では、こんな特性にも配慮した会話をしてもらえた方がいいな、、と思う。
定型発達の人間だって、若者は、そろそろビジネスとプライベートを分けたい、と思う日本人が多いのだし・・・。ユニバーサル会話で仕事、になってほしいなあ。と思います。

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