2017年1月21日土曜日

自己肯定感の低さはどこからくるのか


「自己肯定感が低い」と改めて指摘を受ける


今日、カウンセリングと診察がありました。
そこで、改めて「前から気になっていたけれど、自己肯定感がとても低い。」と指摘を受けました。

私自身はあまり自覚がなく、自分という存在をうまくとらえていないので、いつもゆらいでいるようなところがあり、ピンときませんが、まあ高いほうではないだろうと思います。


能力の高さと自己評価


心理士さんは「ボクだったら、WAISの結果で全検査IQが130あったらもっと「えっへん」ってなるけど、そうでもないんだよね」と言いました。

うーん、そういうものなのか。そのために受けてるわけじゃないし、、という感じです。
でも、たしかに、それなりに出来ることもあって、私が私と他人なら、自己評価の低さを疑問に思う可能性があるでしょう。

そこで考えてみると、どうもその「知的能力の高さ」は、私にとって、これまでデメリットをかなり多く産んできたことが、一因にあるようです。

「普通にしているだけで、なぜか怒られ・妬まれる」


それは、きっとアメリカ人が日本で「英語が話せていいよね」「英語が話せるからって、私達をバカにしないでくれる?私達の気持ち、ちゃんと考えてから英語話してよ。」と、何百回と言われているような感じなのではないかと思います。

私は、出来ないことも多いけれど、出来ることもたくさんあります。
そのひとつで、これまでの人生で多くを占めてきたのが「お勉強」です。

トロくて幼い私が、なぜかお勉強だけよく出来る。
でも、くそまじめですぐに泣く・感情や身体のコントロールがぜんぜんできない。

いわゆる「小中学校の人気者」と真逆の能力のバランスをしています。

そうすると、なぜだか知らないけれど、周囲の人々は、私の発言はいちいち「自慢」に聞こえるようなのです。
私にとっては、当たり前の語彙を使って話していること。
当たり前の論理展開をつなげて楽しんでいる遊びでしかないこと。

それらが、「私達の気持ち考えてよ!」「いちいち自慢しないで」と、攻撃される要素になるようなのでした。

それも、わからなくもないのです。
というか、わかりたくなんかないけれど、わかってしまう。

いっぽう、私の気持ちは、いったいどこへいくのかは、わからないけれど。

とにかく、私にとってのふつうは、自慢なのだ。
かわいくない子どもになって、攻撃されるらしい。「キモイ」らしい。「うざい」らしい。「何いってんのかわかんないから無理」らしい。

それを学習しました。

能ある鷹はなんとやら、なんていうことも言われました。だから、お前なんか大したことない、と。能無しだから自慢してるんだろう、と。


そうじゃない!
私は、普通に、自分らしく、振る舞いたいのに!
じまんなんかしていないのに!

これについては、どうしていいのか、結論が出ていません。

とりあえず、現状も、そういったもやもやを抱え続けていることについては、環境調整ないしは、環境変更が本当は望ましいのだろうけれど・・・というところを少し話し、今日は終了でした。


高IQは、ある種の知的障害だ、と、時折言われます。
MENSA(高IQ集団)会員には、ニートが多いことも言われます。落ちこぼれも。

平均から外れていると言う意味では、IQ70の苦しみ(とは違うけれど)と、レベルとしてはおなじなのでしょう。
IQが離れていても、話が通じないわけでもないし、IQが近ければ、仲良くなれるわけでもないけれど。
現状、いわゆる”定型発達”でくくられることのある「同質性を好むタイプ」の人間が多い世界では、平均から離れることは、高確率で生きづらさを生むのでしょう。

違いをたんなる違いとして捉えることは、どうやらひどく難しいことのようです。
私にとってもそうかもしれません。
でも、それを絶対に目指したい。あきらめない。

自己肯定感は上がるか?


さて、では、今から自己肯定感は上がるものなのだろうか。いまわたしは、褒められることも多いです。嬉しいです。自分はいいんだな、と感じられます。
けれどもおそらく、幼いころからの積み重ねを今から復元するのは、難しいだろうと思います。

なぜなら・・・


上図のように、基本の土台(肯定を受け入れる器や土台)がきちんと固められていないので、今から自己肯定感につなげるのは、けっこう難しいのではないかと考えました。

ただし、それでも、確実に、ちょっとずつ、踏み固められて、自己肯定感に繋がるんじゃないか?
と、なんとなく思います(思いたい・・・)。
だって、褒められたら、一応、こそばゆくても居心地が悪くても、嬉しくないわけじゃないのだから。

えっへん、とむねをはれるところまでいかなくとも、そこに存在することを否定してしまわぬよう、自分が出来ることのひとつひとつを忘れぬよう、自分を育てたいと思います。
この図については、来週、余裕があれば、診察で「これでよいのか」確認してみようと思います。



自傷の頻度は下がらず平均的な様子で続いています。
そちらも様子見をして、記録をつけるように言われました。

2 件のコメント:

  1. 少し前までTwitterでやり取りさせていただいていた、みつひろ(@kokuriko32)です。お久しぶりです。急にすみません。

    Twitterアカウントの方はちょっと思う所あって消させていただいたのですが、実は今閲覧専用の鍵垢を作って、気になる人をリストで見ています。実はもりさんもリストに入っています。(すみませんそういうの嫌でしたら言ってください、すぐリストから外して見ないようにしますので。)

    --------

    で、ブログの内容とあまり関係なくて恐縮なんですが、少し前もりさんが「文字にしたらまた目から入ってよくない」って呟いていらっしゃったことを、さっき突然思い出しまして…。

    私が前そう言ったの気になさってるのかな、と思ってしまったのですが、もし気にしていらっしゃるのでしたら、どうかそれはもう気になさらないでください。吐き出せる場所は必要と思いますし、吐き出す時に「本当はダメなのに」と思ってしまうときっともっと辛くなりますよね。

    白状すると、実はあのお話をした時も私はツイッターをやめるつもりでした(あの時は結局やめませんでしたが)。それでちょっと気になってたことを最後に言ってしまおうと思って、ああいうお話をしたのです。多分「やめたほうがいい」って言うともりさんはもっと辛くなってしまうんじゃないかとも思っていたのですが、「俺はもうツイッターやめるしいいや」という気持ちも、正直なところ少しあったと思います。本当にすみません。自分勝手に言葉を投げつけるようなことをしてしまって、本当に申し訳ありませんでした。

    「文字にすると怒りの再生産になる」という側面は確かに少しはあるかもしれません。怒りのコントロールができるようになれば、文字で吐き出さなくて済むようにもなるかもしれませんが、コントロールができないうちから自分の中に抑え込もうとしてしまうと、多分もっと辛くなるのでは、とも思います。
    なので、書いて吐き出して気が済むのであれば好きなだけ書いてしまっていいと思います。どうやったらコントロールできるようになるかは、また別で考えればいい話とも思いますし。

    とりあえずもしも「ツイッターに吐き出すのはいけないと言われたからやめないと」というようにお思いでしたら、私がそのお話をしたのにはこういう理由があったので、どうか気になさらないでください、本当にすみません、とそれだけお伝えしたくてコメントを書かせていただきました。だいぶ長くなってごめんなさい。

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    1. みつひろさん、

      お久しぶりです。

      最近見かけないなあと思ったらそういうわけでしたか。
      リスト管理かまいません。そういうことも含めてカギをつけていないので、自由にしてください。

      ああ、時々そういうことを私はいっていますね。

      気にしているというより、自分でもそう思うところがあるので、暴走しすぎないようにしているような感じですので、大丈夫です。
      吐き出せるときに吐き出せる分を出してしまう大切さもわかっているので、バランスをとろうとしているのです。

      なるほど。
      みつひろさんは、とても言葉を選んでていねいにあつかう方だなあと思っている(勝手に思うだけですが)のですが、それもしんどいことはあるでしょう。なげつけたくもなるかも。
      私は「ああたしかにそうだなあ」と思っただけですので、大丈夫ですよ。はっと冷静になり、少し面白がりました。

      文字は私にとって音声言語よりもコントロールがききやすいツールだという面があるので、かなり利用しています。音声言語はコントロールがききにくく、よりリアルにフラッシュバックを誘発する可能性があるので、支援者がいる時に吐き出すようにしたほうがいいかな、などと、これを書いて思いました。

      思考が進む言葉たちをありがとうございます。
      また、私の方は、みつひろさんの以前のリプライを気にしていないので、ご安心くださいね。

      再びあなたの言葉を読むことが出来てうれしく思いました。メッセージをありがとうございます。

      それでは。

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