2016年4月28日木曜日

障害は個性か


障害は障害だ


結論は、「障害は障害」です。個性ではありません。
私はそう思います。

言語的観点


「障害」という言葉を考えます。
それは、この世界で生きる上で不利になる、その原因の要素です。

ただし、言葉は変化し、また使用するにつれ、派生的な意味が生じます。
それ自体は悪いことではありません。

「障害を個性とみなす」ことは、「派生」です。
「派生」をおおもととみなして、そこから議論を始めると、ひととひととの間で意志の疎通がとれなくなります。違うものどうしが便宜的におなじものを共有する場合、基本の意味からそれてしまってはルール違反です。

好みはあるかもしれませんが、「まず意思の疎通をしたい」とか、「学問的・科学的な話がしたい」とき(文系も当然科学的です。)は、「言葉の大本の意味」をはっきり定義し、共通理解を図った上で使う必要があります。

その場合、「障害」は「障害」でしかありません。

社会的観点  例)わたしの場合



社会的な観点においては、「障害」というのはひとつの見方だと思います。
たとえば、私の情報を少し上の図に上げました。


これを、障害、個性、という議論の場合によく起こる複数の観点から観察しました。
それが、また上に示した図です。

どれもが重なりあって、また、いろいろな方向から、スポットがあたったり当たらなかったりしています。
それが、社会における障害、個性、という議論です。

この、「スポットの方向=観点」の違いのために、議論がめちゃくちゃになっていると思います。

そして、この中で(心情的に・また医療的に・私としては)一番大切な観点は、「本人」です。
周りの評価は関係ないです。
(ただし、別に周りがどう思うのも自由です。どう対応するか、どう言動を起こすか、は自由ではありません。世間にはルールがあるからです。これは「本人」もおなじです。)

頼まれもしない他人が、本人の事をジャッジするのは、とても失礼です。
少なくともわたしは、お断りです。


まとめ

今のところ、私の意見は以上です。
色々な制度や考え方をつまみ食いしながら、楽しく生きようと思います。


2016年4月27日水曜日

ああ、女の子ってやつは!


海外の児童文学によく出てくるせりふ。「ああ、女の子ってやつは!」
たいそう可愛らしいせりふで、お話の中では女の子も男の子も愛おしく、ワクワクする存在です。
さて現実では、女の子は。やっぱり、「ああ、女の子ってやつは!」と言いたくなることがあります。

わたしは女の子のコミュニケーション・スタイルがどうやら苦手な側面があります。
全部が全部というわけではありませんが・・・。
女の子は大人です。
精神的な幼さのある私には、ついていけなかったり、ちょっと怖い思いをすることもあります。さっきまで悪口を言っていたのに、その人とくるりと面が変わるように仲良くしていたり・・・わけが分からなくて、調子が悪いととても怖い。(調子がいいときは、そういう面も冷静に眺められる、言語を使って理解しようとできます)

そんなことを考えていて、思い出したのが上記の出来事です。
ちなみに、同じようなことを男の子に言われたこともあります。

そのときは、「なんだか私はだめだった・・・?でもわからない・・・」と混乱していました。

そして今日、
ああ、このお友達は、私に「ひどいね!なにそれ!」とかって、見方になって欲しかったんだ。
そして、それはぜんぜん悪いことじゃないんだ。心の動きとして、自然で、こういうことができると、自分の気持ちのコントロールがしやすいんだ。悪いことじゃなくて、良いことでもない、自然なことなんだ。(でもできなくたっていいんだ)

と、ふとつい先程思い出し、理解しました。

女の子ってやつは!まったく。複雑だなあ。

私ってやつは、こういうことについていけない自閉の側面、また精神面の幼さ(凸凹)を抱えているんだなあと再確認しました。

こういうことで人間関係がこじれない方法としては、「あたりさわりなく、深く介入しない」という方法を私はとっていますが、これはときどき、ぞっとするほどさびしい思いをする(私がいなくても気づかれない、いても気づかれない、なんてことがよくありますし、だれかと「すごく仲良し」のような状態になることは、こういう態度をとっていると、基本的にありません。傷つくことがあっても、ある程度自分を出さなければ、多分、いけないのです。ああ、不安にかられるなあ。)ので、できれば少しづつ、そうでない方法も使って人付き合いをしていきたいです。


2016年4月24日日曜日

idea : LINEみたいな支援システム

先日、免許証をなくして、バスに乗る必要がありました。
しかし、私は「時間制限の有る中で、時間の予測がつかない」ことにとても弱いです。
結局パニックして乗れませんでした。

このままではいけないなあ、でも何か助けがいるなあと思いました。

そこで、こういうものがあるととても良いなと考えついたものをメモします。


こんな感じです。

具体的に解決策を文字(人によっては音声)で示してくれるサービスがほしいな、と思います。
それぞれのローカル情報を知り、発達特性に対応する必要があること、また、「いつ、どういう質問が来るか」わからないのに「即時対応」ができれば良いことなど、難しい側面が多いですが・・・。

少なくとも、現在の発達支援が「主に電話のアクセス」なのは、メールも使えるように改善されるべき(視覚優位者が多いのはわかっているはずで、そういう人を支援する場所のはず・・・)かと思います。守秘義務とか文章の保存も問題がありそうですが、そのあたりは頑張ってクリアして欲しいものです。

これくらいならピアサポ+少しの専門家でできないかなあと思います。少しずつ対応範囲とアプリを増やす感じに。

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【現行支援機関も一応メール使える・こういう突然の困った!も対応しているようです】

私の利用している「障害者職業センター(国立で各都道府県にあり。手帳なしでも通院していたり、心配があれば無料で利用可能。)」は、時間内であればこういった突然の相談も受付けていると担当者さんにお返事いただきました。
また、「全体メール」で、「返信はとても遅い」ようですが、メールも受け付けているようです(ただしおそらく主に初回相談受付とかなんだろうな、現状、という感じ。でも、相談に使う人が増えれば変わるかもしれません。)。

きいてみないとわからないですね。

災害にそなえる

九州でおおきな災害がおこりました。
影響を受けすぎないようにしていたけれど、やはり影響は避けられず、もともと良くなかった調子をがくんと崩しました。

私の場合、こういうときに「愚痴」や「愛情」よりも「具体的な解決」が必要です。
完全にではないにしろ、災害用のグッズを車に積みました。

災害時、自閉のある人は、災害のダメージに加えて避難所のざわざわした環境、体育館の反響、人とのふれあい(具体的なものも、比喩的なものも)という苦手にさらされます。
それを想定したとき、私は避難するのがとても怖くなりました。

心理士さんに、「発達障害のある人へのケア・精神のケア部隊(DPATというそう)も動くから、大丈夫」と言葉をもらい、もう少し具体的にそのあたりのことを教えてもらって少し落ち着きました。

次に、否応なく入ってくる情報で、「ものが足りない」ことにとても不安を覚えました。
突然災害用のリュックを準備しないと!と衝動にかられて準備。



心理士さん曰く「東北のときは、絶対にプライベートが確保できる車の中で過ごす発達障害の人が多かったよ」とのこと。また、我が家、私の生活圏内は津波の心配があまりない(もし我が家が津波に飲まれたら、日本沈没レベルかも)こと、家にはある程度生活用品があること、移動は自家用車が多いことを考慮し、車の中に、災害用のグッズを入れました。食糧は、車は暑くなるので入れていません。

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【入れたもの】
・衛生用品(ウェットティッシュ・生理用品・ゴム手袋)
・イヤーマフ(コンパクトタイプ・赤)
・手回し充電ライトラジオ・iPhone充電対応
・ヘルプカード
・障害者手帳申請用診断書、ナビゲーションブック(これは手帳と保険証のコピーにいずれ変えようと思います)

・山登り用の靴(リュックの外)
・ビニールシート小(リュックの外)

軍手、靴下あたりも入れておいたほうがいいかと思いましたが、とりあえず以上。



今回の災害用にしたイヤーマフはこちらです。
かなり小さくなります。圧迫感はありますがかなり音は聞こえなくなります。




充電器はこちら。自分の使用している携帯やスマホに対応しているかよく見て、また一度使ってみたほうがいいです。説明書も捨てないで入れておきましょう。うまくできないと絶対にパニック。
こちらは下着の予備としてもOKで、災害時の色々心配なときにも安心できそうなので購入してみました。

すべてに備えることはできないかもしれませんが、今回不足したもの、自分特有の心配事に備えるだけでも気持ちが違うなあと思います。

2016年4月7日木曜日

冗談と距離感

自閉症やアスペルガー症候群の特徴として「冗談がわからないことが多い・真剣に返してしまう」ということが上げられます。

私も当てはまる面があり、真剣に返してしまったり、考えるうちに場が白けてしまった経験を何度もしています。

けれども、「冗談がまったく嫌い・理解できない」というわけではありません。
理解できる冗談は面白いと思いますし、自分でも言います。

最近も、冗談で失敗した経験があります。

【ケース1】
私がじんましんを出した翌日、「疲労とストレス」が主な原因らしい、という話になった場で

上司「それってTさんのせいなんじゃないの〜(ニヤニヤ)」
Tさん「まじかよ〜」

そのあと、私は何も言葉を発しませんでした。真剣に「そうなのかな・・・」と、今までのことを振り返っていたのです。

上司「おいおい、すぐ否定したってくれよ〜(呆れている)」

私「す、すみません・・・」

【ケース2】
エレベーターに乗ったら上司ともう一人、Iさん。
上司が急にぐいっと目を合わせてきて(怖い)
「ちょっとゆらしていい?」と何度も何度も聞いてくる。
全く意味がわからずフリーズ。Iさんは笑っている。どういうことなんだろう?

と思っていると、上司がどん、とエレベーターの中でジャンプしてエレベーターをゆらした。
びっくり。
上司とIさんは「やめてくださいよ〜、も〜」などと笑って会話。
「やっていい体重の人とだめな体重の人がいるんです〜。」
「やっていいやろ〜」
「だめです。」
「Iもだめやな」
「そんなことありません〜」
と軽口を叩いている。
私、まだ固まっている。

いかがでしょうか。
【ケース1】は、そのまんま「言葉どおりに受け取ってしまい、言外の意図(すぐに否定するなどしてじゃれあう)に気づかなかったケースです。

【ケース2】はというと、私はフリーズしています。ただ、最初に質問されたときは、「これは何かのじゃれあいだ」程度の認識はありました。ただ、それでも全く意味がわからなかったのです、「何を揺らすんですか?」という質問すら、浮かびませんでした(これが出ればまだ「わかっていないことをわかってもらえ」ます)。

どちらも、軽口ですから、いわゆる定型発達の人にしてみれば「気にしなくてもいいのに」という程度のエピソードかもしれません。
しかし、こういうことが積み重なると、ちょっとつらいです。
「気にしなくていいのに」といえるのは、基本的にうまく振る舞えているからなんだろうな、とちょっと卑屈になったりしてしまいます…。

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これらは、いわゆる「コミュニケーション能力」の問題ですが、今回少し考えてみて、「私にわからないのは、距離感と言葉遣いの関係、および、距離感そのものをはかることだ」と思いました。

そのために、言葉をそのまま受け取って良い場面・関係なのか、また、「じゃれあい」の言葉の程度がわからないのです。

また、私のせいで場が白ける要因として、「まじめすぎる・距離が遠すぎる」ということがあります。これも、「距離感がわからないから、全員に丁寧語の距離感で接するしかない」ためです。

私は「いじり」や「シモネタ」ができません。
「どこまでやっていいのかわからない」からです。

また、それらを受けた時の反応もあまりわかりません。
「どこまでが受け止めるべきもので、どこからがひどいいじめなのか」わかりません。

※ただし、これに関しては、やりすぎて嫌がられるよりも、やらないほうが圧倒的にましだと思います。

そういうことがあるので、「じゃれあい」に参加すると、1人だけカチンコチンなふるまいをして、場を白けさせてしまいます。みんながスッとあだ名を使い始めても、うまくいえません。たまらなく辛く、切ないです。
「じゃれあい」をしたほうがいい、とわかっているんです。
でも、うまくできません。
だから、「安全策」として、その場から距離を取る・幽霊になる・真面目に返すといった方法をとることが多いです。

今のところ、これが安全策です。
文字での会話は、やりやすいので、少しくだけることができます。
また、家族はけっこう大丈夫ですし、幼なじみも、少しくだけられます。

2016年4月3日日曜日

マイナス要素のある言葉(カウンセリング)

今回のカウンセリングは、主に現職場における「雑音が気になってつらい」ことについてでした。

雑音というだけなら耳栓でシャットアウト出来るのですが、人の声となるとそうもいきにくいです。また、「音」だけでなく「意味」に反応している部分もあるので、そこはいたしかたありません。

今回の場合は、ある人の仕事の仕方がやりだまにあがっていることが、私には全く関係ない(当事者でも槍玉に挙げているひとでもない)のに、つらい。いたたまえれない、感情に飲み込まれてしまう、悪い言葉(必ずしもそれは悪口ではないのですが、感情としてマイナス)の閾値を超えてしまう。ということです。

そして、職業センタと職場においてはそれを今すぐどうこうするのは非常に難しいとのことで、カウンセリングに課題が回ってきました。



「共感できない」のではなく「共感のスイッチ」に不具合がある


私が上記のような状況に弱い理由のひとつには、発達特性があるようです。
自分で自覚している部分では、「言葉に含まれる強い感情やマイナスイメージが閾値を越えると、パニックになってしまう」ということ。

それから、今回心理士さんに教えていただいたのが「共感のスイッチ不具合」です。
心理士さんによると、発達障害をもつ人はよく「共感の欠如」がいわれるが、まったくそんなことはなく、「共感しているのだが、その観点やスイッチング、フォーカス等に不具合があり、おたおたしてしまったり、とっぴな言動になるのではないか」とのこと。
私の感覚とも合います。また、時折当事者の方で「空気は読める。でもどうしたらいいのかわからない。」とか「空気は読める。読みすぎてしまって混乱してる」という人がいるのもうなずけるかもしれません。



抑うつによる感情接触への弱さ


また、抑うつによる「強い感情にふれるのが辛い」という症状もあるようです。私は現在尺度では中程度の抑うつですが、あと少しで強い抑うつのカットオフとなるようです。
そういう抑うつ・うつ病の状態の人は、特に「誰かがいじめられる場面」「起こっている場面」「恥をかく場面」といったものを目にする・耳にすることに弱く、避けがちになるとのこと。
まさに私はこれで、いたたまれなくてどうしようもなく辛くなって、その場から逃げます。
小さいころからそうなのです。
これは発達特性としても出るという説があるそうですので、私が「小さい頃から」であるのはそういう部分かもしれませんが、抑うつの影響も大いにあると思います。

以上の説明・話を主として今回のカウンセリングは終了。うつが強くでているため、次回、抑うつの治療を新たに導入するそうです。
また、前回は臨床心理士の集まりでしたが、今回は精神病理学者(精神科医師)の集まりに、私の事例を出すそうで、その了解をしました。「自分のこだわりの話にとらわれず、体験を語れる」人は臨床では少ないそうで。ネット上ではよく見かけますが、不思議です。

主治医とは絵の話をし、投薬変わらず。WAISの日程に空きが出たので早まりました。

細く長く、見ていてくれるひと(ケースワーカー面談)

二回目のケースワーカー面談がありました。

そこでは、現状の仕事について少しお話をし、
「今のところ、個人で生活費にまでなる仕事は難しいので、現職ですこしずつ頑張っていきましょう」ということになりました。

また、前回はしなかった、アートの仕事の話もし、
「それもいいじゃない!むしろそれで食べていけないのかなあ」と言われました。

うーん、そう簡単にはいかないなあ。

とはいえ、今は別に仕事があり、また実家にいることで金銭的に「困窮」とまではいっていないため、仕事+αでそういったことをする余裕を作っていきましょう、ということになりました。

これは、少し前に高校時代の芸術の先生、そして今でも交流のある方からも言われていることで。

「洋服や小物で少しづつたくさん作るのもいいけど、完全に向いているとは思わない。あなたは色彩感覚が優れていて、かつ線で画をとらえる人のように感じるから、大きな作品を一定数描き続けて、ちゃんとした公募展に出し続けてみたら?」

と言われました。

その話も少しして、作品も見せました。

ケースワーカーさんも「絵をもっと見たい」とのことで。

私も、絵をそういうふうに取り組んでみたいと思っているので、余裕を作ってやりたいと思います。

こんなふうに高校の時から、いつも一緒なわけではないけれど、ちょこちょこ交流が続いていて、真剣な話も(その方は私の診断もご存知です。また、芸術の先生ということで、「かわった子」とか「アーティスト気質」な人との縁もあり、なんとなくそういう部分にも理解があります)できる先生であり・先輩であり・友人のような人がいるのはすごく貴重だな、と改めて今回の面談で思いました。

ちょうど「世界自閉症啓発デー」のコラボ記事を書いていたこともあり、こんなありがたい人がわたしのまわりにはいるんだなあと思いました。これって、なかなか珍しくてありがたい関係ではないでしょうか。