2016年6月11日土曜日

「興味の限局」、内と外

「興味の限局」とは(外)


発達障害、特に自閉症スペクトラムの人にあると言われており、DSM−5における診断基準の1つとしてもあげられているものです。
生活全般に対してバランスよく興味関心をもつことがなく、興味のあることだけに熱中する傾向を指します。興味のあることに熱中する、ということは誰にでもありますが、生存行動・社会生活・コミュニケーションにも大なり小なり支障が出るような「病的/障害的なもの」である場合に、「興味の限局」として、医療や福祉の分野で扱われます。

自閉症の重い人では「ミニカーを並べ続ける」「水を眺め続ける」などの行動がよく例としてあげられ、程度の軽い人でも「いわゆる”おたく”」のような行動や、「こだわり」と言われることもあります。

自分に「興味の限局」があると、自覚できない(内)


私は先日のカウンセリングの流れで「自分に興味の限局があると見立てられている」ことを知りました。
自閉症スペクトラムの診断を受けているので、理解していたはずなのですが、意外に思いました。そして、少し考え「いわゆる定型発達の社会からみると、”興味の限局がある”と見立てられること」は理解できました。けれども、やはり自分ではそう思えません。

むしろ、「わたしは世界のあらゆることに興味がある」と思っています。
興味の幅が非常に広い人間だと思っているのです。

私の興味(内)


私は、世界のこと、文化のことを、知りたいといつも思っています。
自分の発達について、他者の発達について、社会について、人間といういきもののついて、動物について、ことばというものについて、ものをつくること、すべては、「世界とは何か?」「どうして世界はこのような有りようなのだろうか?」といった問題に還元されることを感じています。その手がかり・足がかりが、先に上げた「自分の発達について〜」等の小テーマなのです。自分の足がひっかかりやすいテーマが、たまたまそれらであるために、それを通じて、世界のありようを見極め、仕組みを解明しようとしているのです。

心理士さん曰く(外−内のつなぎ)


心理士さん曰く、「研究者は自殺率が高い研究者は、まさにあなたの言うようなことに興味を持っているが、それは興味が限局しているんだよ」「大学院生が病むのも、1つのことばかり考えているから。」とのこと。

また、興味が限局していると、うつになりやすい傾向もあるそうです。気晴らしができにくいからですね。
したがって、自閉圏の人というのは、うつのリスクが高いことになります。意識的にリスクマネジメントをする必要があります。(発達障害に限らず)障害児療育で「余暇の指導」をすることも、このあたりの意図があるのかもしれません。
だから、心理士さんは「色んな楽しいことをやってください。あなたは、興味の限局がみられるから」という意図の話をされました。そこで、この記事のことを発想したのです。

ただし、私が「興味の限局」を無理に直すと、その分「本当の私の興味(上記)」の達成に支障が出て、それはそれでうつリスクになります。したがって、「興味のあることを思い切りやるための環境を整える必要がある(前回記事参照)」ということになるのです。


さいごに


そういうわけで、「外側から見たら」私には興味の限局があります。しかし、それは「内側から見たら」正反対なのです。
むしろ、私に言わせれば「みんな、興味の幅が狭くないか?楽しいの?」とさえ思います。むしろ、気になることがありすぎて、生活するための行動が邪魔くさいほどに、興味があるのです。
一般社会とのズレがあるだけで、「限局している」わけではないのではないかと思います。
そして、それが私の世界(感覚)のすべてであり、きれいに完結している世界である以上、興味の限局を理解することはできても、ほんとうの意味で、外側からの自覚をすることはできないのかもしれません。

「内側から見た自閉症」というウェブサイトがありますが、そういう「内側の世界」をもっと追求してまとめたいです。それは、世界のありようの一端だからです。


5 件のコメント:

  1. すごくよくわかります。
    興味のある事を、周りの人は他人と意見をすり合わせて楽しんでるんだけど私は自己完結してます。意見をすり合わせる時に、微妙な、人と人の力関係だったり言葉が足りて無いかとか、牛歩の如く毎日やってるな〜と思って見てました。私は、そんなの自分なりに価値観があればいい事だし、と思ってました。
    けど自分の価値観も時には披露する場が出てきて、いいね!ってなってる時は良いですが、女子の複数人になるとどういう訳か上手くいきません。

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    1. 普段は自他の区分をして割り切っているけれど、やっぱりきちんと?話ができる場が欲しいなあと思います。女の子同士の会話は難しいですね…(−_−;)力関係よりも、話の内容が感じたい!と思います。私も議論しているはずが言い負かすことに焦点が移ることもあるので、そういうところは定型さん見習わないとなとも思います。ちょうどいいところっていうのはきっとなくて、探り探りなのですね。

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  2. MORIさま、はじめまして。とても興味深い記事、ありがとうございます。とくに、「『外側から見たら』私には興味の限局があります。しかし、それは『内側から見たら』正反対なのです」の部分に、そうそう! とうなずきまくりました。わたしは人文社会科学系研究者ですが、仕事しているときの感覚(けれども愚直なまでに精緻な作品を創ると評価されます)のまま、ほぼ日常生活をおくっているので周囲とずれまくっているようです。言語理解IQ突出型なので、粒度/抽象度のコントロールを操作しながら話すこともできます。めんどくさいのでなんでもうんうんニコニコしてその場をしのごうとするも、結局はあとから疲れと感情が追いついて来て壊れてしまうあたりをなんとかしたくて、やはり探り探りです。

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  3. 訂正:すみません、(けれども)→(狭いけれども)です。

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    1. little lambさま、はじめまして。お読みいただきありがとうございます!
      言語性IQが突出していたり、全検査IQが正常域だと、やはり「一応できちゃう」という困難がつきまといますね。しかも、これはとても理解されにくく、なんとすれば変な嫉妬をぶつけられたりしてしまいます。
      けれども、いわゆる「普通の会話」も必要で、楽しい部分も感じられる麺もあります。少しづつちょうどいいところを探っていきたいものです。

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