2015年7月15日水曜日

お願いです、怒鳴らないで。

私は大きな声がとても苦手です。

そもそも、人の声をストレスに感じるのですが、怒鳴り声となると、その何倍、何百倍ものストレスを感じます。

私の場合たいてい頭が真っ白になって耳鳴りがして、全身の皮膚がびりびりと感覚をなくていき、離人症状を呈します。

参考:『緊張しすぎた発達障害児にありがちなこと
極度の緊張、ストレスにさらされた発達障害児の症状をまとめた記事ですが、これは健常児にも起こりうることで、その閾値や緊張する事柄のバリエーションに差異がある、というだけのものかと思います。

この記事を書くのも、フラッシュバックがめぐりめぐってしんどい。

それでも、お願いしたいのです。
お願いだから、怒鳴らないで。必要以上に大きな声を出さないで。

他人が怒鳴られている場面に出くわすのも、ダメです。
上記のようになることもあるし、頭がカーっとなって、その場から逃げ出してしまったり、号泣したり、ウワーッと喚いたり、暴言を吐いたりせざるを得ません。そんなこと、したくないのに。これで、学校を逃げ出したり、家や職場でパニックになったり、何回もしました。何回も呆れられたと思います。すごく申し訳ないし、いたたまれないです。こんなふうになりたくないのです。

定形発達の人だって、怒鳴り声は不快だと思います。
これは特別なことではありません。
耐えられないのは、我慢がきかないからではありません。
もちろん定形の人も、我慢なんてできなくていいと思います。

人間は動物ですから、「強いものから威嚇されたら、怖い、涙がでる、震えるetc...」のは「生きるために当然の反応」です。

何かを教えるときに、上手く行かなくて、怒鳴ることが多いと思います。
そうでなく怒鳴るというのは論外です。
でも、教えるときも、怒鳴ることは意味がありません。完全に悪影響です。

ずるしないでください。
怒鳴らないということを聞かせられないなら、それは力量不足・システムの落ち度です。どんなに遠回りでも、そちらを改善するべきなのです。
それを怒鳴って補うのは「ずる」です。

(もちろんおとなになってからというのは、その人を育てる義務や守る義務が必ずしもあるわけではないので、難しい面もありますが)



少し重い話・この記事の主張においては必ずしも読む必要がないです。注意。



私は少しだけ、教員をしていました。
教員に対する「子ども」を盾にとった絶え間なく際限のない要求、とてもじゃないけどこなせない仕事量(24時を過ぎても新任の先生はかなりの数が学校にいたし、その後家でも仕事をしています)、パワハラにセクハラ、統一されていない方針(これは良し悪しですが)、余裕がないことはわかります。ストレスをぶつける場所があるといい、もっと余裕を持ってお仕事をできるように、今すぐなってほしいです。自分に余裕がないのに、他人のことなんてそうそう考えられませんから、その中でこれだけ頑張っている先生というのは、本当にすごいです。

それでも、やっぱり、無理解・理解する気のない人というのは、たくさんいます。
今の若い先生と言うのは、必ず「日本国憲法」や「発達」に関して大学で学んでいるはずなのですが、やはり「人から学ぶ」ことに長けている、バランスのよい人が多いために、それが裏目に出ているのでしょうか。わかりませんが、若い先生でさえ「もうこいつらには、恐怖で支配するしか方法ねえわwww」などと言う人がいます。
怒鳴り声を怖がってフリーズしてしまう私を「子どもと一緒になって怖がっとったんか?え?」とさらに怒鳴りつけ、威嚇するような人もいました。当然の反応をバカにして、押さえつけないと、いうことを聞かせられないのですね。
違和感は感じるのですが、怖くて怖くて、そういう人々の前では何にも表現することが出来ませんでした。雑談で話しかけられる、その声にさえ、身もすくむ思いでした。

当時は、そういうことに対する感情を、もともと感じる力が弱い自分の感覚を殺していたので、身体症状だけであまり感じなかったのですが、今になって、どんどんフラッシュバックしています。

今、おとなの人は、熱血教師に育てられた恩があるかもしれません。愛があれば伝わる子どももいるかもしれません(大間違いですが、たまたま耐性があり、そう誤学習し、他者と自己の区別がつかず、全員そうに違いないと信じている人が多いのは事実です)。

でも、大半の子ども・そして大人は、「怒鳴られるのはとても怖い」し、「その時には、言葉など頭に入っていません」。

さらに、誤学習が進むと、「怖い人の話だけ聞く」ようになります。
怒鳴った張本人は、それによって「俺は教育ができる」と鼻高々です。

違います。
「どんな人の話もフラットな状態で聴き(聞くことが難しいなら当然他の方法で)、理解し、意見を持ち、表現し、議論する」
ことができるようになる必要があるのではありませんか?

怒鳴るという行為は、弱いものの話は聞かなくてイイ、怒鳴ればイイ、強い人にへつらっておけばイイ、という、極端に言えば「差別意識」を学習させています。


大きな声を出さなくても、上手に社会(および教育現場)が回るようなシステムを作りましょう。
「何を気の長い話を」と思うかもしれませんが。
気の長い話でも、しなきゃだめでしょ、って思います。
このままじゃあ子どもも大人も首しまっちゃうよ。

もっと論理的に書きたいのですが、これが精一杯です。ごめんなさい。

恨みを晴らしているだけかもしれなくて、とても公開したくないです。

でも、発達障害という症状が少しブームになっているのに乗じて、ちょっとでも「怒鳴らないのが当然」に近づいてくれないかなあと、切に祈ります。








0 件のコメント:

コメントを投稿