やっとわかった。
「プレゼントをあげる」「料理を作る」「サプライズをする」
これに対して欲しい反応は「あげた物に対する評価」じゃなくて「それ相手にしてあげたいという気持ちに対する反応」だったんだ。
物は欲しくなかったら仕方ないけど、相手の為に選んだ気持ちを汲み取って欲しいんだな。
— あざこ (@azako0310) 2015, 7月 24
もし料理が今食べたい物でなくても。もらった物がイマイチでも。サプライズが嫌いでも。嫌がらせで相手もしてるわけじゃない。
だからその気持ちを一回だけ、ワンバウンドだけでいいから「ありがとう」が欲しいんだ。行為にこもってる気持ちに言うの。物の良し悪しじゃなくて。
— あざこ (@azako0310) 2015, 7月 24
もしかしたら発達障害者が持っている「感覚過敏」と同じ様に、定型発達者は「感情過敏」とでもいう物を持っているのかもしれない。
行為にも、物にも、現象にも感情を乗せてそれを優先する。
「感覚過敏」は我慢できないよ、「感情過敏」なんて我慢できるでしょ。
と思うなら大きな間違いだ。
— あざこ (@azako0310) 2015, 7月 24
定型発達者が感情を蔑ろにされる感覚は、おそらく感覚過敏にも近い物があると思う。
我慢だけではどうにも解決できない。ある程度はできても、どこかで爆発する。そういった類の物なのだ。
だからこそ、これを踏まえてお互いが理解して「何が大事」で「何が我慢ならんか」をあぶり出す必要がある。
— あざこ (@azako0310) 2015, 7月 24
なるほど、私は人への興味、感情への興味やアンテナが低く、上記ツイートでいうなれば「感情鈍麻」なのかもしれないなと思います。
自閉っ子は人の気持がわかりにくい、と言われますが、当事者側からすると、「わからないからって、冷たい人間じゃない。気持ちがないわけでも、空気が読めないわけでもないんだけどな、なんでか、うまく理解できない、ずれてしまうんだよな」と思う こともよくあります。
また、自閉っ子同士では、とてもうまが合い、共感できる、とする実感や研究結果も出ています。
むしろ定型発達の人々が皆一様に”いわゆる感情”と呼ばれるもの(”いわゆる感情”としているのは、発達障害者が感情がわからないわけではないが、定型発達者が意図するような感情のメカニズムとは違う動きをするために、定型発達者にとっては「感情がわからない」と捉えられている、ということを示し、「定型発達者にとっての感情」が、一般使用される語彙としての「感情」であると示すため。)に対する感度がとても高く、「なくてはならないこだわり」かつ、「適切な感情を受信できないと怒りや悲しみをおさえることが難しいほど耐え難い」とかんがえると、とても納得しやすいです。
以前、一度「感情過敏なんじゃないの????」と思ったことがあったのもあり、とても納得がいく、興味深いツイートでした。
例えば私が家族に「たとえ家族でも他人は他人。わからないのだから察しあうのは無理だし、押し付けは嫌(太字部分が本当に伝えたいこと。その前はその理由で、事実を言っただけ)」と言うと、「家族を他人だなんて、ひどい!!なんてことを。家族なんだから。そんなひどいことを言わないで。」と過剰に「他人=冷たい、冷めた感情」を読み取って、反応されます。「今はそこは問題ではないし、感情的な話ではない」と言っても、通じないのです。感情過敏の感覚を用いると、おそらく「感情的な問題ではないとわかっていても、どうしても、読み取るつもりがなくてもそう読み取ってしまって、ダメ」なんですね。「慣れだよ。」とか「気にしないで。」が通用しないのです。
感覚過敏の「聞く・感じるつもりがなくても、ささいだとわかっていてもとても苦痛。耐えられない。」のととてもよく似ています。当事者感覚も、周囲の人の感覚も。
プレゼント等の「やってあげた」や「注意」に関しても、その事実やモノに先に反応してしまう私に、「感情が先」のはずなのにそれがない=「気持ちがない」「ないがしろにされた」と感じ、「言い訳しない」「気持ちの問題」「せっかく・・・」と思われてしまう、おたがいにがっかりさせるつもりなんかなかったのに。という事態も、よくあることで、とても納得しました。
いつも、すぐには無理かもしれないけれど、自分に余裕のあるときに、少しずつ、「合わせてあげる」わけではなく、「お互いに楽しく過ごすために」気持ちを伝えることを練習できればいいなあと思います。「ありがとう」も「いや」も、気持ちを出すことは、今の私の課題でもあります。
私はブログなどで「定型さんはよくわからない、感情過敏すぎるなあ」「私はこう思う」「お互いに理解したい」なんて思索したり書き綴っておきながら、定型発達者の特性に対して、実際の所ぜんぜん理解しようとしていなかったのかもしれない、と思いました。
あまりに自明なこと、あまりにかけ離れたことというのは、想像したり発想したりすることがとても難しい、ということ、定型さんの耐え難い部分、というのを、初めて実感したような気がします。とても反省しました。
私は今まで「弱者をふりかざして」はいなかっただろうか?「弱さ」に甘えていたのではないか?
と考えました。
同時に、「なぁんだ、定型さんだって、凸凹パターンが似てる人が多いだけで、まっ平らなわけ無いよね。みんな凸凹なんだ。そりゃそうだよ。」と思いました。
情報として「知っていても」「理解していなかった」ことが、すっきりとわかったような気がします。
お互いがお互いの特性を理解して伝え合い、すり合わせ、生きられればいいなと思います。
小集団や1対1の中でなら、比較的それはやりやすいんじゃないかと思います。まずそこから。
大きな集団になればなるほど、少数派である発達障害者は押されていきます。
そして、押された経験や「自分が人とは違う」ことを自覚していることが多いのは発達障害者だと思います。
だから、どうしても特に大集団だと、「自分の特性を自覚せず、当たり前にふるまい、たまたまうまくいく」定型発達者、「特性を自覚し、相手の特性が見えない中でうまくやろうとし、うまくいかない」発達障害者、という構図が出てくる。
弱者に甘えたくないけれど、それもまた存在する状態だと思います。
ああ、まったく、定型さんの説明書が欲しい。
「よくわかる定型発達」
みたいに。
概要だけでいいから、知りたい。
一例でもいいから、その感覚や思考のメカニズムを知って、すり合わせられたら、お互い楽になる、お互いもっと面白いだろうな、と思います。
定型発達の皆さん!私はあなたのことがとても知りたいです。
0 件のコメント:
コメントを投稿