2015年7月29日水曜日

色覚異常と私の世界認識

色覚検査を、6歳の時初めて受けました。
就学時検診です。

小学校の児童玄関を入って右手、保健室の向かいにある会議室の、後ろの扉から入る。
茶色くて長い、安っぽいベニヤで作られた会議用机が並ぶ。
子どもがぞろぞろと並ぶ。
絵本のような検査用紙を見せられ、答える。
気持ち悪い。怖い。

それがなぜ色覚異常を発見できるのか、色覚異常とはなにかはわかりませんし、説明もありませんでした。

しかし、それで

「どうやら私に見えているこの世界は、間違っているかもしれないのだ」

ということ、

「他の人間の形をしたものも、私と同じようにものを見、考えている。それは全て少しづつ、もしくは全く違ったものなのだ」

ということを、当時は語る言葉を持ちませんでしたが、知りました。
とてもこわかった。

「他人」というものの存在、というか、「他の脳みそ」の存在を否応なく知りました。
畏れを感じました。

そのままふわふわと自分という固体(×個体)が右上に飛んでいって、そのまま空気に溶けて消えてなくなってしまうんじゃないかと思いました。

今でもそういう感覚、自分や他人、世界を信じられないような、不安でたまらない感覚があります。
本当は私なんて存在しないのでは?
私って一体何?

そんな根源的な不安を拭えないまま生活していて、ふとそれは顔を出して襲ってくる。

パニックにならないように必死で自分をおさえます。
ぎゅっと体を抱いて、自分が溶けてなくなってしまわないように。
一度あきらめて、手放してしまったら、私は自分を大切にすることができなくなってしまうでしょう。フラッとどこかへ行ってしまったり、フラッと自分を傷つけたり、簡単にしてしまう、と思います。
それはとても甘美な誘惑。ああ、そんなふうになるのもいいかもしれない。

人間の集合はひとつのアメーバで、私みたいな存在は、きっと所詮エラーのひとつ、機能、人間というアメーバが存在するための危機管理のひとつにすぎない。私が個体としての個を主張することに何の意味があるのだろう。

そんなふうに感じてしまいます。これが私の世界認識です。


こういう世界認識の不安定さ・独特さというものはよくあることなのかわかりませんが、ニキ・リンコさんはこんなふうに感じていたそうです。

「この世の運命は決まっていて、人は配役通りに動いているだけ。運命は読み解くもの、自分で作るものではない。世界には巨人がいて、家にある備品など必要なものは全て巨人が用意しているし、全ては巨人が決めている。」

ちょっと似ているな、と思います。

刹那的にしか生きられない、今しか見えない、見通しがないと不安が非常に強い、一瞬先が見えない恐怖、というものと、この世界認識は関わっている、と思っています。
いつ死ぬかわからないのに、どうやって生きたらいいのか、とても恐ろしいのです。

「そんなの私もだよ」たいていのひとはそう思うでしょう。
その通りです。
だって、あなたはあなたの認識の中でしか生きられないのですから。
人間の想像力の限界なのかもしれません。

とにかく、こういうものと闘いながら生きるしかありません。
じりじり、じりじり。
消えてしまってだめだ、と学習で知っています。
たとえ私の存在が夢でも、私が今、こういう意識をもつことは、事実ととにかく認定して。無理にでも。そうして、ゆっくり生きていくことしかできません。

そんなに捨てたもんじゃないよ、この夢は。
私の存在を夢見てくれた誰か、アメーバに、ちょっとだけ感謝して、でもちょっとだけ憎らしいです、やっぱり。

コレクションするということは歴史を作ること、事実を重ねて信じられる確実なものに変換し、自分に見せてあげることです。
ものを並べたり、ずっと変わらず回るものや、循環する水。歴史。ルール。
そういったものにたまらなく執着を覚えるのは、そういうことなのかもしれない。

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