2015年7月31日金曜日

目盛りは素敵





















今更ながら、この瓶を買いました。
メイソンジャーの、ミスタードーナツで買えるものです。




これ。
ビンは、好きですが、今まではこれには興味がありませんでした。
なぜ急に欲しくなったかというと、「目盛り」です。






光に透かすと綺麗。
さて、これには、「目盛り」が入っているのが見えますか。
それに、先日気がついたのです。

必要なくても、目盛りがあると、なんだか素敵。





定規やメジャーも。
目盛りに使っているフォントが、可愛らしいのも、いいです。

どうしてかわからないけれど、目盛りやマークといった記号に惹かれます。

工具や事務用品の文字や目盛り、数字なんかも、大好き。

2015年7月30日木曜日

危ない特性。

発達障害でよく「困り事」として上がるのが「感覚過敏」です。
吐いてしまったり、メルトダウン(パニック)になってしまうこともある、しんどいものです。
そしてそれと対になるように言われるのが、「感覚鈍麻(過鈍)」の問題です。
これは、「セルフ・モニタリング」の弱さとも関係しています。


私はおそらくかなりの部分が鈍麻です。
ただ、過敏と鈍麻の構成が自分の中でどうなっているかは未だによくわかりません。
鈍感なようでいて、意識できていない過敏のコップが溢れて、急にパニックになることもあって、混乱します。

ただ、「痛み」に非常に強く、気がつかないまま大怪我や病気をしていることが多いです。
転んで脚が血だらけになっても普通に通学して、教室に着くなりクラスメイトにぎょっとされ、「保健室へ行け!」叱られたり。
腹痛を一晩我慢して歩いて病院へ行ったら、即手術。「あとちょっとで壊死」を起こしてしまうところだったり。
小さい頃から知らないうちにできる、謎の痣や傷がたえません。痒みに非常によわく、痛みにむやみに強いため、かきむしって自分で自分をボロボロにすることもよくあります。

普段は、あんまり意識しない特性なのです。「鈍感」故に、意識しようがない。
そして、「あんまりしんどくない」わけです。「しんどい(痛い)のがわからない」特性ですから。

その点、過敏よりも「いいじゃん」って思われるし、自分でも結構思います。だってラクだし、つらくても、がんばれちゃうもん。努力できちゃうもん。

とはいえ、上記のような危ない、時には命にかかわることが起こると「ああ、なんて危ない特性なのだろう。」と思います。そして、この鈍麻は身体にも精神にも及びます。モニタリングの弱さもです。「つらい」を意識できない。限界まで、死のギリギリまで、ともすると、そこを越えててしまうかもしれない。というのは、とても危険かもしれない。私の特性の中で、一番どうにもなっていなくて、しかも、意識しにくい。やっかいなところかもしれない。と思い始めました。

この特性って、結構、危ない、ということに気がつき始めたいま、どうにかして、鈍麻な部分・セルフ・モニタリングの弱さを、鍛えていきたいなあと思っています。

また、これには「純粋な鈍麻/モニタリングの弱さ」に加えて、

・「自己主張への恐怖」
・「程度がわからない」
・「休んではいけない・休むのは悪」誤学習
・感覚過敏な部分にメモリをとられている

ことが重なっている可能性があり、ここを潰せば、改善する可能性があります。これ自体も、自閉傾向の特性ではありますが、このあたりは学習・練習や感覚を休ませる対策(イヤーマフ等)でなんとかなる部分であります。

一次障害の部分は、改善するかもしれないけれど、あんまり手立てが見込めません。
そのため、この、二次的な部分を、まずはうまくコントロールしていけたら、と思います。どのくらいが純粋な鈍麻で、どのくらいが別の特性なのか、本当にこういう特性なのか、わかりませんが、手立てを講じてみたいと思います。結果も、わからないかもしれないけれど、それでも、精神も体も、本当にやりたいこと、本当に知りたいこと、見たいもの、に、注力するために、工夫して楽しんでしまいたいと思います。


2015年7月29日水曜日

色覚異常と私の世界認識

色覚検査を、6歳の時初めて受けました。
就学時検診です。

小学校の児童玄関を入って右手、保健室の向かいにある会議室の、後ろの扉から入る。
茶色くて長い、安っぽいベニヤで作られた会議用机が並ぶ。
子どもがぞろぞろと並ぶ。
絵本のような検査用紙を見せられ、答える。
気持ち悪い。怖い。

それがなぜ色覚異常を発見できるのか、色覚異常とはなにかはわかりませんし、説明もありませんでした。

しかし、それで

「どうやら私に見えているこの世界は、間違っているかもしれないのだ」

ということ、

「他の人間の形をしたものも、私と同じようにものを見、考えている。それは全て少しづつ、もしくは全く違ったものなのだ」

ということを、当時は語る言葉を持ちませんでしたが、知りました。
とてもこわかった。

「他人」というものの存在、というか、「他の脳みそ」の存在を否応なく知りました。
畏れを感じました。

そのままふわふわと自分という固体(×個体)が右上に飛んでいって、そのまま空気に溶けて消えてなくなってしまうんじゃないかと思いました。

今でもそういう感覚、自分や他人、世界を信じられないような、不安でたまらない感覚があります。
本当は私なんて存在しないのでは?
私って一体何?

そんな根源的な不安を拭えないまま生活していて、ふとそれは顔を出して襲ってくる。

パニックにならないように必死で自分をおさえます。
ぎゅっと体を抱いて、自分が溶けてなくなってしまわないように。
一度あきらめて、手放してしまったら、私は自分を大切にすることができなくなってしまうでしょう。フラッとどこかへ行ってしまったり、フラッと自分を傷つけたり、簡単にしてしまう、と思います。
それはとても甘美な誘惑。ああ、そんなふうになるのもいいかもしれない。

人間の集合はひとつのアメーバで、私みたいな存在は、きっと所詮エラーのひとつ、機能、人間というアメーバが存在するための危機管理のひとつにすぎない。私が個体としての個を主張することに何の意味があるのだろう。

そんなふうに感じてしまいます。これが私の世界認識です。


こういう世界認識の不安定さ・独特さというものはよくあることなのかわかりませんが、ニキ・リンコさんはこんなふうに感じていたそうです。

「この世の運命は決まっていて、人は配役通りに動いているだけ。運命は読み解くもの、自分で作るものではない。世界には巨人がいて、家にある備品など必要なものは全て巨人が用意しているし、全ては巨人が決めている。」

ちょっと似ているな、と思います。

刹那的にしか生きられない、今しか見えない、見通しがないと不安が非常に強い、一瞬先が見えない恐怖、というものと、この世界認識は関わっている、と思っています。
いつ死ぬかわからないのに、どうやって生きたらいいのか、とても恐ろしいのです。

「そんなの私もだよ」たいていのひとはそう思うでしょう。
その通りです。
だって、あなたはあなたの認識の中でしか生きられないのですから。
人間の想像力の限界なのかもしれません。

とにかく、こういうものと闘いながら生きるしかありません。
じりじり、じりじり。
消えてしまってだめだ、と学習で知っています。
たとえ私の存在が夢でも、私が今、こういう意識をもつことは、事実ととにかく認定して。無理にでも。そうして、ゆっくり生きていくことしかできません。

そんなに捨てたもんじゃないよ、この夢は。
私の存在を夢見てくれた誰か、アメーバに、ちょっとだけ感謝して、でもちょっとだけ憎らしいです、やっぱり。

コレクションするということは歴史を作ること、事実を重ねて信じられる確実なものに変換し、自分に見せてあげることです。
ものを並べたり、ずっと変わらず回るものや、循環する水。歴史。ルール。
そういったものにたまらなく執着を覚えるのは、そういうことなのかもしれない。

T食堂の話

お友達のMさんは、私の大学の同級生、Rちゃんのお母さんです。
わたしはこの一家にとてもお世話になっています。
彼らはお友達をよく家に招き、みんなで食事をします。それを、「T食堂」なんてふざけて呼んだりします。

そして、私とMさんは性質がとてもよく似ていると感じます。
のめり込むと止まらなかったり、うるさい音が苦手だったり。
仲良しの人にはとてもそうは見えないけど、人付き合いはかなり苦手。
でも、好きなことにはとことん取り組みます。
Mさんは私の母の世代ということになりますが、今でも作品を作って、海外に行ったり、留学したり、もともと芸大生で留学経験があるとはいえ、とても精力的に活動しています。すごく尊敬します。

あくまで家族としてのかかわりではないため、一部だけのことですが。

性質が似ているからか、Mさんの勧めてくれるセラピーやヨガなどは私にとても合います。違うところもいっぱいあるけれど、とても大切に交流したい人です。

さて、そのT食堂での話。

T家では、指示や意思表示がとても明確です。そして、基本的に個人主義で、言葉にしないかぎり、各人が自由に過ごします。


例)
「**ちゃん、お手伝いしてれる?」
「++ちゃんは、ごはんをよそってください。**ちゃんは、お箸を並べてください。」
「私は、こう思う。なぜかというと、〜〜〜〜だから。」
「これが欲しい。どうしてかっていうと、こうなの。」
「今日は、10時に@@へ行きます。11時につく予定です。なので、10時までに家を出られるようにしてください。あとは自由だよ。」
「少し、音楽止めてください。頭がいたい。もう少ししたら大丈夫だからね。」


こんな感じです。
強い口調やマイナスイメージの言葉を使わず、誰に、何を、いつして欲しいのか、誰はいつ何をすべきなのか、あとはどうするのか、今は自由なのか

とてもわかりやすいのです。
口頭での話なのですが、とてもわかりやすいです。

ゲストの多い家庭ですから、ひとの家におじゃましている人に対して、どうすると心地よいか、といったことを、よく知っているのかもしれません。
海外経験豊富であるため、はっきりと言葉を使う傾向があるのかもしれません(確かに、彼らの言葉は、英語を日本語に訳したような言い回しだなあと思うことがあります。)。

Rちゃん曰く、こういう性質・習慣は、面倒だなあと思うこともあるようですし、実際そうだろうと推察しますが、私にとっては非常にわかりやすく感じ、とてもありがたいです。





















ラベリングや整頓の構造化も、わかりやすくて私は大好き。
いつか真似しようと目論んでます。

2015年7月28日火曜日

プチ当事者会とSNS

先日、twitterで発達障害当事者のあおさん、如月行さんとこんな会話をしました

発達障害をもつ人は、体幹の筋肉を鍛えるのが苦手な傾向があるようです。

私も、彼らもそれが当てはまります。
椅子に座るとじっと落ち着いていられない。
座れても、ものすごく姿勢が悪い。

こういった筋肉や姿勢の問題を解決するために、今までも取り組んできました。

【今までの関連記事】
チェーンブランケット1 
低緊張で過緊張
多動と身体イメージの考察

こんなふうに考え続けている内容なので、思わずまた考え始めてしまいました。
最近とみに「バンボ」の大人用が欲しい、という気持ちが大きくなっていたので、より思索にハマり、面白かったし、とても得るものがありました。

最近では発達障害も有名になり、全国の都市部で当事者会が行われているようです。
私はそういう当事者会に行ったことはありません。
なんだか何のために、何をしに行くのかよくわからないし、知らない人に合うのも怖いし、そうまでして得るものがあるのか、全然理解できないからです。

テーマをもってやっている当事者会というのも少なくはないと思いますが、やはりそれぞれで性格(障害は関係なく)も違えば困り事も違う、向かう方向も違うなら、あたりをつけるに主な当事者会の目的である2つ

「同じ障害の人と仲良くなりたい」
→「何で同じ障害だと仲良くなれるの?意味分かんない」
→「ほぼ全員が程度の差はあれ社会性に困難を抱えているのに、ちょっと行く当事者会で仲良くなれると思えないし、なりたいと思わない」

「困っていることを解決したい」
→「これはわかる。福祉も医療も限界はあるから。」
→「でも、その会で本当に解決できるの?」
→「話をするのが苦手だから、多分私にはその会で何かをいきなり話したり相談することはできない」

は、こんな感じに思えてしまうわけです。

それで、役に立つのか疑わしいし、ちょっと当事者会というものを遠巻きにしていたのですが、今回上のまとめのような会話をして、「こんな当事者会なら、すごくいいな。この会話って、ちょっと、プチ当事者会なんじゃないかな?」と思いました。
そうか、こういうことをもしかして、当事者会では目的としているのだろうか?と思いました。

ただ、今回こんなに会話が展開された理由は

・文字だから
・たまたまテーマが3人で噛み合って情報を出し合えたから
・全くしらない人ではなかったから(?)

だと思います。特に、「文字だから」の要素が非常に大きい。

ただ、それでも会って話し合うことも有効だと思います。
より「現物を見せる」のがやりやすいということもあります。
写真やURLのやりとり、文字でのやりとりはやはりわかりやすく、とても合っていると思いますが。

実際的な困りごとの解決には、文字だけで、思いついたことを思いついた時にポンポン言える、URLや写真も気軽にやりとりできる、という環境がいい。すなわち、SNSというのはとても有効だなあと感じたのでした。

怖いところもあるSNSですが、インターネットを介さなければとてもやりとりできない人と知り合ったりやりとりができ、またやりとりの方法も、私には合っていて、今回のこと以外にも、「かむかむナイン」について教えてもらえたり、作品を見てもらえたり等します。
うまく利用して、生活していきたいものです。



落ち着くグッズいろいろ

先日からかみかみグッズやキャノピーなど紹介していますが、今日はいくつかまとめて載せようと思います。

①ラトル系
後ろに写っているのが、「オーボール ラトル」です。可愛くて大好きです。
そのままだと少し耳に痛い音ですが、デスクでヘッドホンをしている(デスクにいるときは基本的にヘッドホンをしています)時に、さらさらー、と音をだすと、ちょうど私の使っている机と、きれいに響きあってやさしい音が聞こえます。
オーボールシリーズはとてもかわいいです。
基本は左のようなもの。車タイプもあって、これの赤色がすごく欲しいものです。
一番右のは「ハリリット レインボーメーカーツイスト」。これは何人かにおすすめしてもらい、とても音がいいらしく、気になっています。
結構値が張るので、そうそう買えませんが、素敵です。
木のおもちゃなんかも好きで、よく駅ナカのおもちゃ屋さんに行きます。ここは障害児支援グッズなどもあって、とてもおもしろいです。時計が可愛くて、いつか欲しい。

手前のは「水平器」。中に入った水にできる空気(?)の位置で、その角度が水平かどうか調べるものです。
私は大学で写真部に所属していたので、展覧会の際に綺麗に設営するために使っていました。部の備品でしたが、先日Amazonポイントがもらえたので、それを利用して購入しました。ラトルよりも実用性が高くて(今のところ使い道はないですが)、「道具!」という感じでとてもカッコいいです。眺めているだけで幸せです。
私が持っているのは右のものですが、左のものだと持ち運べるし、かわいい。


②にぎにぎ
左のものはNeo*shihoさんの作品、「トキトキ」です。とげが一列になっていつので、「モヒカン」みたい→「モヒトキ」と名付けられています。ペーパーウェイトにもなるし、ニギニギすると刺激が気持ちいい。ツボ押しみたいな感じです。
右は、高校生の時、Neo*shihoさんのアトリエで私が作らせてもらったにゃんこボール。これもペーパーウェイトにもなります。まんまるすべすべです。にぎにぎすべすべします。


にぎにぎグッズでおすすめはこの写真の、「かおまる」です。
中学の時友達へのプレゼントに利用しましたが、自分でも欲しいくらい気持ちいいです。
デザインがちょっと怖いけど、大人っぽくて使いやすいです。大人用だし。
仕事先のデスクに置いても、違和感なし。



③読むグッズ
「魔法の定規」です。
私はアーレンシンドロームや視覚過敏はおそらくありませんが、曇の日はとてもまぶしく感じます。チェックではこんな感じ。
あろうとなかろうと便利なものは使ってしまえばいいので、魔法の定規を買ってみました。
日本語を読むのはむしろものすごく早いですが、英語の本はなかなか進まないので、これを使ってみたらものすごく見やすい!びっくり!しかもなんとなくわくわくします。
しおりにもなるので、便利です。
クロスボウというところが出しています。Webサイトで色別になんとなくの見え方動画があります。ただ、サイトデザインは、チカチカして私は苦手…。
その他、透明なフィルムやカードケースに色を塗ったりする方法もあるかと思います。こちらはカスタマイズできるので、読みに困難がある人向けの方法かも知れません。

いろいろ工夫するのは楽しい!
長くなりましたが本稿ここまで。

2015年7月27日月曜日

ベッドキャノピー

以前から持ってはいたのですが、今の部屋には大きすぎて使っていなかったベッドキャノピーを設置しました。

こんな感じで、かなり低い所に設置しています。

以前一人暮らししていた部屋では、もう少し高い位置に設置していました。それでも、座ると頭がすっぽり入って落ち着くくらいの高さに。広く、天井も今より高かったため、きれいに設置できていました。
けっこう可愛く設置していました。天蓋のようなもの、ベッドを囲うものがとても好きです。箱のようなベッドが欲しいといつも思います。

それで、この部屋では使っていなかったのですが、最近寝付きが非常に悪く(田舎の夏は規則正しく鳴く鳩、発情期の猫、カエルの大合唱。それ自体は楽しくて好きなのですが、眠れない時は、気になる。)また、お友達のツイッターで「テントを使ってベッドを囲って落ち着いている」という記述を見て、思い立って取り付けました。

思ったより、写真うつりがいいですが、ちょっと見た目はヘンです。明らかに設置がおかしい!のです。
でも、中に入るととっても落ち着きます。
写っているブランケットは、以前作成したチェーンブランケット。
明かりが欲しければ、近くに黄色みがかった光のスタンドライトがあります。

自分の部屋を心地よくして、落ち着くための場所を確保しています。




ちなみに…IKEAのキャノピーはいろいろあって、値段もそんなに高くないです。
しかもすごく可愛い!おすすめです。
通販もあり、一部はAmazonでも取り扱いがあります。

2015年7月26日日曜日

かむかむナインが届いた!

先日、かむかむナインが届きました。
こちら、FLY!BIRDさんより購入しました。
かむグッズはすぐに欠品してしまうので、貴重です!

私はとても噛み癖があります。
小さい頃から飴やガム、そして自分の腕を噛み続け、今は顎関節症予備軍。つねに頭が痛くて、たまに顎がものすごく痛いのも噛み締めすぎるせいだと思います。これは母ゆずり。母の奥歯は噛み締めすぎてつるっつるだそうです。特性の遺伝を感じます。母は定型で、どちらかと言うとADHD寄りの人間ですが、部分的に見るとものすごくよく、私に特性が遺伝しているような気もします。
先日、歯科でマウスピースを作りました。
また、ハリボーグミをはじめとする「ハードタイプのグミ」が好きで、ハリボックス(上写真)を買っても1日でかみ尽くしてしまいます。
これではあっというまに糖尿病になる!という危惧もありました。

これが、「かむかむナイン」。いちばんプレーンなタイプです。
横はマウスピース。
透明で結構わかりません。
それでも違和感はあるし食事もできなので寝る時のみ装用ですが、仮に昼間していてもよく見ないとわからないと思います。マウスピースのかみ心地も結構、好き。噛まないように作ったので、噛み締めて壊さないように要注意です…。
ただ、上顎に刺激があるの調子によってえづいて眠れなくなることがあるので、そういう時は外しています。これは過敏のレベルではないですが、おそらく口がとても小さいのでえづきやすいのでしょう。続けられるように自分で調整します。
「かむかむナイン」は、「ガブリチュウ」によく似たかみ心地で、とても良いです。また、匂いも、心配していたほど気になりませんでした。私はプラ食器で食事をするのが、プラスチックと食べ物の混ざった匂いや感触がとても苦手でものすごーく嫌いなので、これは一安心。







ガブリチュウ。これも私の好物。イカソーメンとか、「酢だこさん太郎」とか、駄菓子の噛んでおいしいものが大好き…。

丸い部分(9の0部分)を噛むと、奥歯で思い切り噛めます。
棒の部分なら、ながら噛みができるのでデスクワーク時に。
ながら噛みをするときには大きすぎるので、なんとなーく噛むように、ペンダントタイプを検討しています。おもいっきり噛むのには、かむかむナインはとても良いです。人気があるのがよくわかります。




左のものを検討中。
右のものは、一見歯固めとわからない歯固めだそうです。
先日「僕の彼女は発達障害」のあおさんがNHKに出演した際につけていたペンダントはこういうものですね。

お手入れは、洗剤で洗ったり、ウエットティッシュで拭いて清潔に。
他の安心グッズと共に保管します。
私は主にデスクワーク用に買ったので、あまり携帯することはないかもしれませんが、携帯するとしたらウエットティッシュとともに頓服の袋に入れることをおすすめされて、そうしようかと思っています。


2015年7月24日金曜日

定型発達さんは「感情過敏」?

今日、以下のツイートを読んではっとし、とても納得しました。





なるほど、私は人への興味、感情への興味やアンテナが低く、上記ツイートでいうなれば「感情鈍麻」なのかもしれないなと思います。
自閉っ子は人の気持がわかりにくい、と言われますが、当事者側からすると、「わからないからって、冷たい人間じゃない。気持ちがないわけでも、空気が読めないわけでもないんだけどな、なんでか、うまく理解できない、ずれてしまうんだよな」と思う こともよくあります。
また、自閉っ子同士では、とてもうまが合い、共感できる、とする実感や研究結果も出ています。

むしろ定型発達の人々が皆一様に”いわゆる感情”と呼ばれるもの(”いわゆる感情”としているのは、発達障害者が感情がわからないわけではないが、定型発達者が意図するような感情のメカニズムとは違う動きをするために、定型発達者にとっては「感情がわからない」と捉えられている、ということを示し、「定型発達者にとっての感情」が、一般使用される語彙としての「感情」であると示すため。)に対する感度がとても高く、「なくてはならないこだわり」かつ、「適切な感情を受信できないと怒りや悲しみをおさえることが難しいほど耐え難い」とかんがえると、とても納得しやすいです。

以前、一度「感情過敏なんじゃないの????」と思ったことがあったのもあり、とても納得がいく、興味深いツイートでした。

例えば私が家族に「たとえ家族でも他人は他人。わからないのだから察しあうのは無理だし、押し付けは嫌(太字部分が本当に伝えたいこと。その前はその理由で、事実を言っただけ)」と言うと、「家族を他人だなんて、ひどい!!なんてことを。家族なんだから。そんなひどいことを言わないで。」と過剰に「他人=冷たい、冷めた感情」を読み取って、反応されます。「今はそこは問題ではないし、感情的な話ではない」と言っても、通じないのです。感情過敏の感覚を用いると、おそらく「感情的な問題ではないとわかっていても、どうしても、読み取るつもりがなくてもそう読み取ってしまって、ダメ」なんですね。「慣れだよ。」とか「気にしないで。」が通用しないのです。
感覚過敏の「聞く・感じるつもりがなくても、ささいだとわかっていてもとても苦痛。耐えられない。」のととてもよく似ています。当事者感覚も、周囲の人の感覚も。

プレゼント等の「やってあげた」や「注意」に関しても、その事実やモノに先に反応してしまう私に、「感情が先」のはずなのにそれがない=「気持ちがない」「ないがしろにされた」と感じ、「言い訳しない」「気持ちの問題」「せっかく・・・」と思われてしまう、おたがいにがっかりさせるつもりなんかなかったのに。という事態も、よくあることで、とても納得しました。
いつも、すぐには無理かもしれないけれど、自分に余裕のあるときに、少しずつ、「合わせてあげる」わけではなく、「お互いに楽しく過ごすために」気持ちを伝えることを練習できればいいなあと思います。「ありがとう」も「いや」も、気持ちを出すことは、今の私の課題でもあります。

私はブログなどで「定型さんはよくわからない、感情過敏すぎるなあ」「私はこう思う」「お互いに理解したい」なんて思索したり書き綴っておきながら、定型発達者の特性に対して、実際の所ぜんぜん理解しようとしていなかったのかもしれない、と思いました。
あまりに自明なこと、あまりにかけ離れたことというのは、想像したり発想したりすることがとても難しい、ということ、定型さんの耐え難い部分、というのを、初めて実感したような気がします。とても反省しました。

私は今まで「弱者をふりかざして」はいなかっただろうか?「弱さ」に甘えていたのではないか?

と考えました。

同時に、「なぁんだ、定型さんだって、凸凹パターンが似てる人が多いだけで、まっ平らなわけ無いよね。みんな凸凹なんだ。そりゃそうだよ。」と思いました。

情報として「知っていても」「理解していなかった」ことが、すっきりとわかったような気がします。

お互いがお互いの特性を理解して伝え合い、すり合わせ、生きられればいいなと思います。
小集団や1対1の中でなら、比較的それはやりやすいんじゃないかと思います。まずそこから。
大きな集団になればなるほど、少数派である発達障害者は押されていきます。
そして、押された経験や「自分が人とは違う」ことを自覚していることが多いのは発達障害者だと思います。
だから、どうしても特に大集団だと、「自分の特性を自覚せず、当たり前にふるまい、たまたまうまくいく」定型発達者、「特性を自覚し、相手の特性が見えない中でうまくやろうとし、うまくいかない」発達障害者、という構図が出てくる。
弱者に甘えたくないけれど、それもまた存在する状態だと思います。

ああ、まったく、定型さんの説明書が欲しい。
「よくわかる定型発達」
みたいに。
概要だけでいいから、知りたい。

一例でもいいから、その感覚や思考のメカニズムを知って、すり合わせられたら、お互い楽になる、お互いもっと面白いだろうな、と思います。

定型発達の皆さん!私はあなたのことがとても知りたいです。

キャパシティのまんが


感覚過敏その他能力に関して、職業センターで私の中の一部が考えたことです。

水=刺激・感覚・能力
コップ=その人が受け止められるキャパシティ(でも、全部飲める=処理できる とは限らない)

感覚過敏等の特性と、能力の高さ、低さ、それを活かせるか?というのはほんとうに近しいところにあって、工夫次第、環境しだいだなあ。と思います。
人によってコップも水の出方もバラバラなんだよ、ということです。


これがいわゆる「療育」的な部分だと思います。
できればコップが大きいことを活かせるといい。
けれど、一応「別の川や水道に案内」したり、「家に入れ」たり「水汲みしなくていいよ」というのも対応のひとつではあります。
人によって適切な対応は違いますね。
でもできれば上の絵のような工夫をして、「自分でできる」といいなあと思います。

職業センター


最近障害者職業センターというところで相談支援を受けています。
その一環で適性検査をしました。

私はうつ病と発達障害ということでセンターでの支援を受けていますので、その関連の検査をカウンセラーの方が選んで下さり、受けました。WAISは、病院で受けていたので、その結果をお渡ししました。

結果を聞きに行ったところ、概ね、数値的には高く、どの職業にもそこそこ適性があるようです。うつ病事態は問診では軽度になっており寛解のよう(ということは今のメルトダウンや気持ちの低下、常にただよう希死念慮は一次障害なのだろうか?)。
また、これはだいたいわかっていたことですが、論理的な傾向が強く(エゴグラムの結果が発達障害をもつ人および理系の人に多い考え方だそう)校正のようなまちがいさがし的なこと、言語・知的なこと、慣習的(ルーチンワーク)が得意で、また好むという結果も出ました。

興味・関心においてあからさまに「人と関わること」の関心が薄く、モノや情報への関心がやたらに高いため、たいていの仕事では人との関わりが必要であるので、それがストレスにならないように慎重に職場を選択する必要がありそうです。また、「やりたくないことをやるのが苦痛」でもある(これは面談の中で自分で見えてきたことです。というより、今まで「やりたくないこと」をやってことがなかったのです。どうやって「やりたくないこと」をやるのか、全く理解も行動もできないかもしれません。好奇心が異常に強いために、この特性が隠れやすいだけだろうと思います。)

就職一年目がひどい有様で、二次障害を発症するに至ったのは、私にとって苦手な「人との複雑なやりとり」「裏の読み合い」「あいまいなタスク」などを処理する能力が大いに必要な職業を、選んでしまったためでしょうと言われました。


 ************************************

おおむねこのような結果を受けて、私は固まってしまいました。
頭が真っ白で、いたたまれないような不安感をおぼえました。

なんとかカウンセラーさんのことばに答えるのですが、だんだんしんどくなっていきました。

「こんなにできるんだから、じぶんで何とかできるでしょ。努力不足だよ。」

言われてもいないのに、こう言われた気持ちになりました。
私自身がそう思っているのでしょう。
だから、もう限界なんだって。もう無理。もうだめだ。そう心のなかで返事をしました。

そして、

「次になんと返事をしたらいいのか」

がどんどんわからなくなっていきました。

決壊。

 ***********************************

決壊の原因

1  今日で一連の「検査⇒結果を聞く」が終わったため、「結果を聞いた(というか結果用紙を貰った時点で)」あとの見通しが一気に不安定になっていた

2 能力があるんだから、自分でできないのは努力不足なのかもしれないという振りきれない思考が再び浮上した

3 1および2を自覚し、言語化し、伝えることが出来なかった

ということでした。
いちばんの原因は「見通し」でした。
あいまいな「次は”就職活動”」というような見通しだと、以下の様な映像やイメージ、文字としての「就職活動」はわかるのですが、では動けるかというと、まったく動けないみたいです。

イメージ映像:https://www.youtube.com/watch?v=M6rb6kknj3A

やはり、想像力・見通しに困難があるのだなあと思います。
一般的に言われる「想像力」や、立体構成を認識するような力(これは『空間把握』ですが)はあるので、なんとなく自分でも周りにも「想像力に困難がある」とわかりづらいのですが、どうもこれは結構、痛い。
スケジュール管理なども、先の見通しがきかないため、先日発売された『僕の彼女は発達障害2』のエピソードと全く同じ、「とにかく力任せにやりきってしまう(ので長続きしない、疲弊が激しい)」方式をとります。 
したがって、「人生死ぬまで」の舵を切る「就職活動」(この認識がすでに偏っていますが・・・現状、やっぱり「失敗すると一気にどん底」な社会なので、こんな感じだと思います。そうでない部分を縫って生きていく所存。)というのはとても困難な分野であるようです。だって、自分がいつどうやって死ぬのか、どういう人生を歩むのかわからないのですから(アタリマエ!)。情報も多すぎて取捨選択できません。

公務員や教員といった職業は、「合格するまで」は、「今まで学校でやってきたこと」ととても似ています。
しかも、選択肢が少ないです。
複数の自治体を受けるにしても、一回に2~3個くらいまででしょう。何十社、何百社とエントリーすることはありません。

そういう意識で受けたわけではなく、興味があって、やりたくて、受けたので、誤解のないようにしたいのですが。
ただ、一般企業への就活を、やろうとしてみて、圧倒的な「見通しのなさ」「想像の出来なさ」「選択肢の多さ」に、参ってしまって、公務員系一本に絞ったのもまた事実。

こういった困難を、今までたまたま、および本能的に避けていたので、発露しなかったのでしょう。学校では上記のような困難があっても特に問題にならないことが多いですし、とにかく学校では勉強をしていればよい、と考えていれば、他のことを全部捨ててしまうことが出来ました。

「想像力に困難が」といちがいにぺらりと言葉で言っても、それが具体的にどういうことなのか、というのは、なかなかわからないものだなあと思います(なにせ想像力に困難があるし)。きっとこれからもこういうことを繰り返して、徐々に手立てを考えてゆくのでしょう。

★ちなみに、今メインでやっている仕事は、「一人でやる」ためとても向いています。人とのやりとりは大切な仕事ですが、裏を読んだりする必要もなく、またメールでの打ち合わせをしてもらうことも可能。そして、「仕入れて⇒作って⇒売る」「提案して⇒採用されて⇒納品(しかもこれはほぼ文字でのやりとり)」という一連の流れが非常にわかりやすく、全体像も今の自分の位置も把握しやすいのです。興味関心も非常に強いため、これをメインに据えて生活していくつもりです。ただ、やはり安定的な収入が欲しいため、センターで相談支援を受けています。

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さて今回は、言葉少なにですが、「見通しが持てなくて不安な中で、オープンクエスチョン(「どうですか?今後どうしましょう?」)が重なり、さらに「能力があるんだから、自分でやらなくちゃならない」という思いが再来し、頭がわーっとなってしまった」ということを伝えることが出来ました。
支援センターの方も、あらかじめ発達障害があることわかっていらっしゃるので、固まったら少し待ってくださったり、文字に書いて今の状態(見通し)を示して下さったので、一応落ち着くことが出来ました。

そして、今後の相談等に、センターの方が同席してくださることになりました。
クローズ就労の場合は、面接などには同席してもらうことが出来ませんが、オープンにする場合は、面接にも同席してもらうことができるようです。ただし、私は能力が高すぎて手帳が取れないようなので、クローズまたは「手帳なし」のオープンで受け入れてもらえるところを探すことになりそうです。
私の場合、就労先を慎重に選べば、クローズ就労でもやっていけるため、場合によりけり、というところでしょう。
またハローワークのざわざわした環境で、自分で原稿などなしで言葉をはっすることが難しいため、個別に相談室のようなところで話をできるように手配してくださりました(一度行ったら、人間のざわざわに全く言葉が出なくなってしまい、頷いて、逃げるように帰ってきてメルトダウン…)。

しんどい結果報告でしたが、少し前進、といったところでしょうか。
なんとも「自分にも周りにも検査にも出にくい困難」の存在、とても困ります。


障害があろうとなかろうと、軽度だろうと重度だろうと、できないところは助けてもらえばいいんですよ。」と、今の支援者さんはおっしゃってくださっています。これは、「手帳」という「証拠(証拠でも何でもないのですうが、目に見える形で存在するため、安心材料になりうる)」がなく、不安定な状態でしんどい私にはとてもありがたい言葉です。
とてもわかりやすい話し方、表現をして下さり、また「どうするか」選べない私に、「じゃあ、こうしますか?」と質問を切り替えてくださったり。
とても助かっています。

じりじりじりじり、いろんな事が進めば、それでよし。
進まなくても、それもまたよし。
焦りの気持ちがいっぱいになりますが、ゆっくりいくしかありません。






2015年7月15日水曜日

お願いです、怒鳴らないで。

私は大きな声がとても苦手です。

そもそも、人の声をストレスに感じるのですが、怒鳴り声となると、その何倍、何百倍ものストレスを感じます。

私の場合たいてい頭が真っ白になって耳鳴りがして、全身の皮膚がびりびりと感覚をなくていき、離人症状を呈します。

参考:『緊張しすぎた発達障害児にありがちなこと
極度の緊張、ストレスにさらされた発達障害児の症状をまとめた記事ですが、これは健常児にも起こりうることで、その閾値や緊張する事柄のバリエーションに差異がある、というだけのものかと思います。

この記事を書くのも、フラッシュバックがめぐりめぐってしんどい。

それでも、お願いしたいのです。
お願いだから、怒鳴らないで。必要以上に大きな声を出さないで。

他人が怒鳴られている場面に出くわすのも、ダメです。
上記のようになることもあるし、頭がカーっとなって、その場から逃げ出してしまったり、号泣したり、ウワーッと喚いたり、暴言を吐いたりせざるを得ません。そんなこと、したくないのに。これで、学校を逃げ出したり、家や職場でパニックになったり、何回もしました。何回も呆れられたと思います。すごく申し訳ないし、いたたまれないです。こんなふうになりたくないのです。

定形発達の人だって、怒鳴り声は不快だと思います。
これは特別なことではありません。
耐えられないのは、我慢がきかないからではありません。
もちろん定形の人も、我慢なんてできなくていいと思います。

人間は動物ですから、「強いものから威嚇されたら、怖い、涙がでる、震えるetc...」のは「生きるために当然の反応」です。

何かを教えるときに、上手く行かなくて、怒鳴ることが多いと思います。
そうでなく怒鳴るというのは論外です。
でも、教えるときも、怒鳴ることは意味がありません。完全に悪影響です。

ずるしないでください。
怒鳴らないということを聞かせられないなら、それは力量不足・システムの落ち度です。どんなに遠回りでも、そちらを改善するべきなのです。
それを怒鳴って補うのは「ずる」です。

(もちろんおとなになってからというのは、その人を育てる義務や守る義務が必ずしもあるわけではないので、難しい面もありますが)



少し重い話・この記事の主張においては必ずしも読む必要がないです。注意。

2015年7月7日火曜日

診断の危険性

発達障害のある人は診断を受けることをポジティブに捉えることが多い傾向があるように感じます。

私はそうです。

実際、診断を受けてから、自分で工夫するためのヒントを「発達障害」というキーワードを使って得ることが容易になり、工夫がやりやすくなりました。自分を理解する、周りを理解するために、楽になるために、とてもいいと思います。どんどん調べて自分を知ることはいいことです。

しかし一方でこんなことがありました。

うつで特性がきつく出ていたというのもありましたが、、
診断を受けて、自分で発達障害について調べるようになり、特性が一時的に強くなりました

これは周囲の指摘からわかったことで、自分では全くわからなかったことです。

「私は発達障害ということは、この本に書いてあるようなことを全部しなきゃいけないんだ」「全部当てはまっていないときは、私は定形なんだから、もっと頑張って自分でどうにかしなくちゃいけないんだ」

という思考がはたらいたのだと思います。
さらに、調べれば調べるほど自分の頭のなかが整理されて心地がいいので、どんどん調べます。もともとハマりやすい性格ですから、際限がありません。
発達障害者の言動は全て同じではないことは当然どんな書籍・記事にも載ってはいるのですが、どうしてもこのような思考にいたってしまいやすいようです。
特に私の場合適応が良く見えるほうで、困っていても診断が出にくいタイプです。

わかってもらうことが全てではない。
私の全てが発達障害で構成されているわけではない。

そう理解はしていても、文字で書かれた「発達障害の特徴」を頭にインプットすると、自動的に身体がそうなってしまうことがあります。
そして、特性持ちであるために、そういう「発達障害の特徴」と言われる言動パターンというのはとてもマッチしやすく、すんなり習得できてしまう。自己刺激行動は落ち着く(特に不安定になっている時期はそうだと思います)。

そういうわけで、特性が一時的に強くなりました。
普通になりたいわけではありませんが、たいていのそういった言動というのは当事者本人も「やりたくてやってるわけではありません」。ですから、これはあまりいいことではないです。

必要な道だったのかもしれませんが、もしかしたらそのままドツボにはまって抜け出せず、「困りたい人」になっていた可能性があり、気持ち悪くてぞっとします。

診断を受けることはいいことですが、こういった危険性も、特に自閉のある人は起こる事があります。
診断を受ける時期や周囲のサポート、自分の心構え、診断を受けた後の環境や気持ち、バランスの取り方はとても大切です。
特に成人の場合、それまでの苦しみ・恨みを一気に晴らすはけ口になると、本人も周囲も、成長のないつらい状態になってしまうことがあると思います。
診断は万能では無いし、診断を受けても何ら当事者本人の性質に変化はないこと、医師との関係の作り方、いろいろな要因を理解した上で診断は受けたほうがいいです。

それどころじゃない状況で診断を受けることが多いですし、私も実際にそうだったわけですが、それでも、記録として。そして、発達障害についてハマって調べている人が、ふと立ち止まれるために。


2015年7月6日月曜日

発達障害の手帳について考える

しばしば発達障害をもつ人の間で話題になるのが「手帳制度の問題」です。

地方によって基準がまちまち、必要な支援が受けにくい、本当は発達障害が問題なのに、二次障害でしか手帳をとれない、二次障害が治っても発達は凸凹だからまたストレスをためて二次障害を発症し・・・なんて。
こんな提言も出ているようです。

一方で、手帳がなくても既存の制度で大丈夫だと考える人もいます。

私は、今のところ、あったほうがいいと思っています。

もちろん今の制度でうまくやれないわけではないと思いますが、やはりそれが難しい部分もあると思います。
ただ、精神や身体の手帳ほど、金銭的な助成は受けられなくてもいいと思います。そして、ないほうがいいとも思います。
特性・必要な支援や配慮を書き込むことができれば、それだけでいいと思います。ミニ・プロフィールブックのようなものです。
そして、これは現在でもないわけではありませんが、「公的な手帳である」ことが大切なのです。

なぜならば、現在発達障害で手帳に関して支援のはざまにこぼれてしまっている人というのは、知的・身体的には問題がなく、「支援と工夫しだいで、たいてい働ける・診断を受けずに安定して過ごしている人も多い」ためです。

発達障害のある人で、働くことが難しい人というのは、二次障害等による精神症状や、知的な遅れを伴う、身体的な不具合を伴う場合が多いのではないでしょうか。
これらは、発達障害とは切り離して考えるべきであり、こういう部分に関しては既存の手帳が存在しますから、発達障害の手帳で補う必要がありません。

発達障害で知的な遅れを伴わない(つまり療育手帳を受けられない)人が手帳を欲する理由というのは「公的な支援や療育をを堂々と(?)受けたい」「普通に過ごすことは出来ても、それには普通よりもちょっと疲れている人もいるんだよ」ということをわかってほしい、というのが一番なのではないかと推測しています。
少なくとも私はそう思います。
ですから、上記のような手帳が存在するといいな、と思うのです。

例えば、感覚過敏の問題。

学校や職場でどこまでイヤーマフや耳栓が許容されるでしょうか?
制服を着ないことやアレンジがどこまで許容されるでしょうか?

これって、「公的なお墨付き」がないと、現状ではなかなか難しいのではないでしょうか?(参考:狸穴猫さんブログナツコさんブログ
はじめから対処できれば、オーバーフローで二次障害を発症、という状態は避けられるかもしれません。

免罪符、というと聞こえは悪いですが、社会にわかってもらうためには、やはり公的な手帳というのはやりやすいと思います。

こういうものができると今度は「グレーゾーン」とよばれる人が増え、そしてそこをカバーしたらさらにグレーゾーンが…ということが起こるのではないか、という非常にめんどくさい想像も働くわけで、どこまで救うのかという部分は考える必要がありそうですが。
そして、自分はどんな支援が必要で、どこまでは自分で何とかしたほうが手っとり早いのか、といった自己理解・自己支援を本人がすることも大切になるのですが。
どうにもならない部分に関して、手帳が欲しいな、と思うこともやはりあります。

なくても、みなが「違って当たり前」で、必要な支援を受けられる、違っていてもみなが頑張ることも当たり前で、うまく回るような世界になることがいちばんかと思いますが、さて発達手帳ができるのと、違って当たり前の世の中ができるの、どちらが早いでしょう。後者に期待をしたいところですが…どちらにせよ気の長い話です。

私の世代ではどちらも実現は難しそうだなあと思います。
ちまちま自分のスキルを積み上げて、楽しく生きられれば、それでいいかなあ。
しかし、このブームに乗じて(?)いろいろな制度が充実してくれると、ちょっと楽だなあ。

どちらでもかまいませんが、二次障害を起こす前に対処したほうが、社会経済的に良いであろうと思います。



空気を読めないとイライラするのはなぜ?

こんな記事があります。

アスペルガーから見た奇妙な定型発達症候群
どうやらもとは書籍のようですが、私は読んでいません。
こんな記事も出ています。

私の支援者さんとも話が出たのですが「定型発達でも、発達凸凹でも、それが悪いわけではない。ちょっと違う文化だからお互い勉強しないとだめだよね〜」と話します。

そういう時に切に思うのは、「定形さんについての解説書がほしい」ということ。

やっぱりみなさん思うんだろうなぁと、こういう記事を見るにつけ考えます。

そして今回考えたのが表題の件です。
これは定形さんの特性として広く知られていますが、正直な所「だとしても、はっきり表現していないのはあなたなのだから、相手に伝わっていないとわかったら、伝えれば済む話ではないのか?不思議だなあ。」と思っています。

そこで、どうしてそんなに「空気がよめないこと」や「常識がわからないこと」が定形さんの神経を逆なでするのか、自分にわかるように考えてみました。

彼らにとって、「空気が読める」ことが当然の性質です。
つまり、空気中に「常識」が漂っていたり、書いてあったり、常にBGMのように頭に入ってきます。
そうなると、そうした物事はたとえ表現しなくても「さっき何度も言ったでしょ」「さっき何度も聞いたでしょ」という事柄になります。

なるほど、何度も言ったことをもう一度説明するのはうんざりします。

そういう体質の人もいるのだなあと思って、お互いに異文化交流できればいいなと思います。

そして凸凹さんにも定形さんにもたくさんの個性がありますから、その人自身が自分と合うか、好きかどうかでうまく付き合っていければなあと思います。
そして嫌いでも、あわなくても、上手くやれるコミュニケーション能力を身につけたいものです。


「空気を読む」「感情を読む」メカニズムははっきりとはわかっていないようですが、ミラーニューロンが関わる、といった研究も最近はされているようです。
またADHDを脳の血流で診断するといった方法も研究されているようで、期待がもてます。

私は、なんとなく「空気を読む」事ができる人間については、

「社会全体がひとつのアメーバ状のイキモノで、そこに点在する人間というパーツ。アメーバを通して伝達があるので、空気が読める、という状態になる人間が多い。そうでない人間は、少しパーツの種類が違う、独立した機関。」

というような解釈をしています。たくさんの人間がこうもスムーズに動いている世の中はとても興味深く、不思議です。
よく自閉症者は自他区分ができていないということも言われますが、こう考えると、「空気が読めて当たり前」の定形さんは、自他区分が全くできていないけれど、単にそれで問題がないだけなのかもしれないなあと思います。自他区分の問題があるのは、凸凹さんだけでは無いのではないかとよく感じます。