2015年8月15日土曜日

「裏庭」 傷と毒親 2 傷

※冒頭は1と同じです


梨木香歩『裏庭』です。

梨木香歩さんという作家は、比較的女性が好む傾向にある作家です。
この作品は、児童書コーナーにあり、子どもの頃に読みました。

今回改めて読み返しました。

というのも、思い返すと、昔は意識をしませんでしたがこの本があからさまに「傷(心の傷)」「きょうだい児」「毒親と子ども」の3本立てのような構成になっているなあと思ったからです。

もちろんそれ以外にも、サンクチュアリのようなすてきな庭の描写や善悪に関する記述、戦争、またファンタジーとしての楽しみもあり、私は主にこちらで楽しんでいます。

けれども、私のツイッターでは発達関連のフォローが多く、それにともなって「傷ついたこと」「親とのかかわり」「きょうだい児」の問題も多くツイート、リツイートされて読んでいます。
そこで思い出して、再読しました。それをまとめます。

以下ネタバレ




「裏庭」に迷いこんだ照美は、そこである理由により3つの藩をたずねることになる。その世界は3の藩「アェルミュラ」「チェルミュラ」「サェルミュラ」に分かれており、そこにそれぞれ”親王樹”をまつる”音読の婆”がいる。彼らに会い、目的を果たす必要がある。

そして、それぞれの藩はガス(これは「一つ目の龍」を解体した災いとされる)によってなんだかおかしな雰囲気になっており、それが「傷」と関連した「逃げ」の姿勢の現れとなっている。それについて、婆たちが照美一行にアドバイス(?)を与える。

アェルミュラ 傷を恐れるな

真っ白の貫頭衣のような服が流行。クレゾールのような匂い。

『最初、皆、指先がおかしくなったと言い始めた。紐が結べなくなったのだ。荷造りもできなくなったし、服の紐も結べなくなった。そのうち、ボタンもとめられなくなった。無理に指を動かすと、手ひどい傷を負った。しかたなく、今のような服を着るようになった。一枚の布に穴を開けただけの物だ。病はそれだけではおさまらず、皆、だんだん無口になった。自分より他のものに関心がもてなくなってきなのだ。傷を負うことを恐れたのがそもそものことじゃ』
『つまり、他との接触が、触れ合うことができないということじゃな』

チェルミュラ 傷に支配されるな

すえた果実のような甘くただれた匂い。傷をお互いに癒やし合う。だが傷は治らず、また、癒やしというのも、ほとんど「傷の舐め合い」。

『それからだ、皆、突然、血を流している自分に気づいたのは。もうそのときには半狂乱さ。皆が自分の傷に捕らわれて、一歩もそこから抜け出せない(中略)皆が傷をさらしているので、攻撃欲も萎えた代わりに、目に見えぬまやかしの癒しの菌の根がはびこって、がんじがらめになってしまうた。あらわになった傷は、その人間の関心を独り占めする。傷が、その人間を支配してしまうのだ。本当に、癒そうと思うなら、決して傷に自分自身を支配させてはならぬ』 

サェルミュラ  傷を育てよ

皆が1つの岩になってしまった。見分けが付くのは傷の色と形だけ。

『あっというまにこの町の刃物という刃物は用をなさなくなった。次に人々が争いを起こさなくなった。みんなまったく同じ。穏やかな、雌牛のような目つきになった。協調的で、平和なことこの上もない(中略)みんなそう思ったものだ。最初のうちは。皆が他を思いやり、皆が1つの考えにまとまるようになり、自他の境などないも同然になった。その平和に陶然となって、異質なガスが流れ込んできたのにも手を打たず、あっというまにあのざまよ』
『傷を、大事に育んでいくことじゃ。そこからしか自分というものは生まれはせんぞ』


恐れてばかりで触れなければ、そのまま、なにも出来ない。
支配されてそれに溺れてしまえば、傷に甘えるだけ。
傷がなければ、つまり、(わざと傷つけとは本書では述べられていません。そういう意味ではない、と記述されています)何かを経験しなくては、自分を形作れない。 

当たり前の事ですが、あらためてはっとします。

それがきれいに、平易に、ファンタジーと混ざりながら、分けて考えることもできる形で入っています。面白いなあ。

障害受容・トラウマ受容の過程と、「アェルミュラ→サェルミュラ→チェルミュラ」の傷に関する記述はオーバーラップします。(実際にこの順で照美たちは進みます)

またこの後、さらに別の場所で物語はクライマックスを迎え、「善悪併せ持つ自分」「清濁併せ持つ自分」「傷ついた自分」などを受け入れる、典型的な描写としての「名前を呼ぶ」という儀式があります。

そして、現実世界では、親との関わりに関しても、親側・子(照美)側ともにあります。3ではそちらをまとめます。

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